満州事変----③

1932年5月15日日曜午後5時半頃警備も手薄のなか、総理公邸に海軍の青年将校らの一団がピストルを振りかざして乱入した。犬養首相は全く慌てず「話せば判る」と将校達を応接室に案内した。暫くして「撃つぞ」「撃て」という叫びが聞こえピストルの音が響いた。(五・一五事件)事件後、総理官邸に駆けつけた「内閣書記官長(現在の官房長官)森恪の態度がおかしかった」と貴族院議員古島一雄は証言している。

犬養首相は満州国の承認を迫る軍部の要求を拒否し、元記者の萱野長知を上海に送って秘密裡に交渉を進めていたが、交渉が煮詰まった段階で森が萱野からの電報を握り潰した。上海公使重光葵も妨害に加わった。また犬養は青年将校の振舞いに憂慮を抱き、天皇に上奏して問題将校30人程度を免官させようとした。これが森を通じて陸軍に筒抜けとなり陸軍は統帥権を侵害するものと憤激したという。そもそも尉官クラス将校の横暴化は荒木陸相自ら彼等と酒席を共にし阿諛追従した結果、軍規が乱れることになったのである。

公邸襲撃の主犯海軍中尉三上卓は海軍横須賀鎮守府軍法会議で裁かれた。当時の政党政治の腐敗に対する反感から犯人に対する助命嘆願運動が巻起こり、判決は極めて軽いものとなり、三上の判決は僅か禁固15年であった。この阿りが36年の二・二六事件に発展することになる。三上は38年仮釈放40年恩赦となり、49年8月ペニシリン等20万ドル相当の密輸事件(海烈号事件)の主犯として摘発される。尚、森恪は持病の喘息に肺炎を併発し32年12月11日50歳で死去した。文部大臣鳩山一郎が看取った。

顧みれば1925年5月14日犬養は率いていた革新倶楽部を政友会に吸収させ、議員辞職して富士見高原の山荘に引き籠った。ところが辞職に伴う補欠選挙に地元岡山の熱烈な後援者が勝手に犬養の立候補届を出してしまったのである。犬養は最期まで滅私奉公を貫き、清廉潔白な政党人として一生を終えた。また孫文は犬養・頭山満梅屋庄吉宮崎滔天等から莫大な援助を受けながら、最後はスターリンの援助に頼った。

32年5月26日元老・重臣達は非常時の名の下に軍部と政党の摩擦緩和のため、五っの内閣で海相を歴任し朝鮮総督を二度務めた斎藤実を首相にし、軍部・官僚・財界・政党から閣僚を出させ挙国一致内閣と称した。犬養内閣の荒木貞夫陸相高橋是清蔵相・鳩山一郎文相は留任となった。リットン報告に先立ち9月15日斉藤内閣は満州国承認と同時に日満議定書を締結した。10月1日リットン調査団は日本政府に報告書を通達した。

リットン報告書は「柳条湖に於ける日本軍の活動は自衛とは認められず、また満州国の独立も自発的とは言えない」としながらも満州に日本が持つ条約上の権益、居住権、商権は尊重されるべきとした。また支那側が主張する「柳条湖事件以前への回復」日本側の主張する「満州国の承認」はいずれも問題解決とはならないとした上で「満州には支那の主権下に自治政府を樹立する。この自治政権は国際連盟が派遣する外国人顧問の指導の下、十分な行政権を持つ」という提言であった。

33年1月関東軍は山海関で日支両軍の衝突発生を機に2月熱河制圧に着手した。張学良ら東北軍閥の財源であるアヘンを奪取しこれを満州国の財源にすることが隠された目的であった。第6・第8師団、混成第14・第33旅団その他の兵力を動員して熱河省へ侵攻し、3月4日承徳を占領。3月10日前後に万里の長城に達した。

33年2月21日日本政府はリットン報告書が連盟総会で採択された場合は代表引揚げを決定した。2月24日軍縮分館で行われた国際連盟総会で報告書は42:1の圧倒的多数で可決・採択された。全権大使松岡洋右は「もはや日本政府は連盟と協力する努力の限界に達した」と表明し総会会場から去った。戦後明らかにされた「昭和天皇独白録」では、天皇は「国際連盟が調停案を出してきたら、それを丸呑みにしても良い」と思われていたという。時には立憲君主を棄てて専制君主であって欲しかったと残念に思う次第である。


レース結果共鳴チェック

満州事変----②

1925年3月孫文の告別式に国賓待遇で迎えられ祭文を朗読した犬養毅に31年12月13日組閣の大命が降下した。陸軍大臣荒木貞夫が就任した。この背後に軍事課長永田鉄山・政友会小川平吉ルート及び軍事課支那班長鈴木貞一・政友会森恪ルートからの強要があった。早速荒木は皇族の閑院宮載仁親王参謀総長に据え32年1月7日には盟友の真崎甚三郎を参謀次長に置き、参謀本部の実権を掌握した。

31年12月23日荒木は満蒙独立国家の建設を目指す「時局処理要綱案」を策定し、12月17日と27日本土と朝鮮から満州に兵力を増派した。関東軍は12月28日より錦州攻撃を開始し32年1月3日錦州を占領。さらに関東軍は1月28日参謀本部承認のもとハルビンに出動し2月5日ハルビンを占領。3月1日満州国の建国が宣言された。執政に清朝廃帝愛新覚羅溥儀が就いた。中華民国の提訴と日本の提案により国際連盟からリットン調査団満州に派遣された。

32年1月以降上海市郊外に蔡廷鍇が率いる十九路軍が現れ日本軍守備隊が保安防衛を行うなか、1月28日午後一方的に攻撃を受け日支両軍が交戦状態となった。日本海軍は第3艦隊(司令長官野村吉三郎中将)の巡洋艦駆逐艦航空母艦及び陸戦隊7,000人を派遣した。さらに2月2日には金沢第9師団・混成第24旅団を派遣し2月20日日本軍は総攻撃を開始した。2月24日日本陸軍上海派遣軍(司令官白川義則大将)を編成。3月1日国民党軍の背後に上陸し19路軍は退却を開始した。3月3日日本軍は戦闘の中止を宣言した。(第一次上海事変)

荒木・真崎は32年2月には小畑敏四郎を作戦課長に就かせ、4月には永田鉄山が情報部長、山下奉文が軍事課長、小畑が運輸通信部長に転じ鈴木率道が作戦課長となった。彼等は全て一夕会メンバーである。そして宇垣派はすべて陸軍中央要職から排除された。こうして満州のみならず日本国も日本陸軍の一部将校に占領されてしまったのである。

話は犬養首相組閣の31年12月13日に戻るが、大蔵大臣に高橋是清が就任するとその日の内に金輸出禁止とする大蔵省令が出され、12月17日の緊急勅令によって日本銀行券の金貨への兌換は全面的に停止された。これで為替相場は大暴落し、1ドル2円が1年後は1ドル5円となり財閥は巨利を得た。これが国民世論における大手銀行を抱える財閥への非難と軍部の対外進出への支持に転化する一因となった。また犬養首相は満蒙問題平和解決のため12月17日萱野長知を上海に派遣した。

32年1月8日上海の大韓民国臨時政府が派遣した刺客・李奉昌は、昭和天皇が乗車した馬車に向けて沿道から手榴弾を投げつけた。(桜田門事件)犬養首相は責任をとるために内閣総辞職を決定するが、翌9日に天皇の慰留によって犬養首相以下全閣僚が残留することになった。174議席という少数与党を余儀なくされていた犬養は政権基盤の強化を目指し1月21日衆議院を解散した。

32年2月9日J・P・モルガンの代理人民政党幹事長の井上準之助は、選挙応援演説会で本郷の駒本小学校を訪れた。自動車から数歩歩いた時、血盟団の小沼正が近づいて井上に5発の銃弾を撃ち込んだ。2月20日に施行された総選挙では政友会が301議席を獲得する圧倒的勝利となった。血盟団の菱沼五郎は3月5日ピストルを隠し持って、日本橋三井銀行本店の玄関前で待ち伏せし、出勤してきた三井財閥の総帥(三井合名理事長)團琢磨を射殺した。

32年4月29日上海の虹口公園(現在の魯迅公園)で大観兵式と天長節祝賀会が執り行われ、午前11時40分頃大韓民国臨時政府の金九が差し向けた尹奉吉が水筒型の爆弾を式台中央に投げつけた。この爆発で上海公使重光葵は右脚を失い、野村吉三郎海軍中将は隻眼となり、植田謙吉中将は左脚を失い、重傷の白川義則大将は5月26日死亡した。金九は犯行声明をロイター通信に伝え上海を脱出した。


レース結果共鳴チェック

満州事変----①

1931年9月18日午後10時20分頃、奉天郊外の柳条湖付近満鉄線路上で関東軍自作自演の爆発が起きた。現場は3年前の張作霖爆殺事件の現場から、僅か数キロの地点である。関東軍はこれを張学良軍による破壊工作と発表し直ちに軍事行動に移った。関東軍は柳条湖近くの支那革命軍の兵営「北大営」を占拠し、翌19日までに奉天長春・営口の各都市を占領した。

9月20日関東軍は特務機関の謀略によって吉林に不穏状態をつくり、21日居留民保護を名目に第二師団主力を吉林に派兵し、朝鮮軍の導入を画策した。30年に朝鮮軍司令官に就任した林銑十郎中将は21日独断で混成第39旅団に越境を命じ、午後1時20分関東軍の指揮下に入った。これは文字通りの統帥権干犯行為である。天皇は事後承認の書類になかなかサインしなかったが、金谷範三参謀総長が参内し越境追認をお願いすると「此度は致方なきも将来注意せよ」と追認に至るのである。

10月8日関東軍爆撃機12機が石原莞爾中佐の作戦指導のもと張学良の拠点である錦州を空襲した。石原は偵察目的としているが25キロ爆弾75個を投下している。関東軍は「張学良は錦州に多数の兵力を集結しており、日本の権益が侵害される恐れが強い。満蒙問題を速やかに解決するために錦州政権を駆逐する必要がある」と公式に発表した。

10月16日秘密結社桜会橋本欣五郎大佐や大川周明らの満州事変に呼応して、若槻首相や幣原外相を殺害し、荒木貞夫中将を首相とするクーデター計画が陸軍中枢に漏れ翌17日橋本をはじめ長勇、根本博らが憲兵隊により一斉に検挙された。合法的な軍事政権樹立を目指す永田鉄山らに極刑論もあったが、橋本の盟友である石原莞爾が陸軍首脳に圧力をかけ曖昧なままにされ、橋本は重謹慎20日、長らは同10日の処分となった。

11月に入って関東軍は北部満州チチハルへの進撃を企図した。しかし、ソ連との衝突を危惧する軍首脳はこれを阻止すべく、11月5日臨時参謀総長委任命令第1号を発令した。つまりこれにより関東軍司令官は参謀総長の指揮下に置かれることになったのである。それでも関東軍は11月19日チチハルを占領してしまった。このまま事態が推移すれば32年4月の定期異動で永田鉄山石原莞爾はじめ一夕会メンバーは枢要ポストから一斉に外される危険が高まった。

柳条湖事件の4ヶ月前の5月8日オーストリアのクレジットアンシュタルトが破綻し、ヨーロッパの金融市場は大混乱に陥った。日本の大手銀行は「為替統制売り」を利用したドル買いと海外支店への送金に走った。この動きで為替相場が一気に円安となるということに気付いた大手銀行や投機筋は、為替差益による利潤を狙ったドル買いを画策。加えて9月21日英国が金輸出を禁止した。井上準之助蔵相の緊縮財政が崩れると見た大手銀行・投機筋は一斉にドル買いに殺到した。(ドル買い事件)

内務大臣安達健蔵は三井・三菱・住友財閥がドルを買い過ぎて窮地に陥っていることを知り、積極財政策を採る政友会と連立内閣を作り、金輸出再禁止によって財閥に巨利を得させようと考えた。10月28日安達は政友会との連立内閣案を若槻首相に提起した。当初若槻は安達の案に賛同したが、井上蔵相や幣原外相らの強い反対を受け断念した。政友会の山本悌二郎鳩山一郎・森恪らは12月4日陸軍の今村均作戦課長・永田鉄山軍事課長・東条英機編成動員課長と密談した。

11月21日安達や中野正剛は連立内閣樹立を目指す声明を発表し、12月9日政友会幹事長・久原房之助と覚書を交わした。12月10日覚書を突きつけられた若槻は安達以外の閣僚と連立内閣反対の方針を確認し安達に翻意を促した。しかし安達はこれを拒否し自邸に籠って再三の閣議出席要請に応じなかった。12月11日若槻は閣議に出席しない安達に辞職を要求したが、安達は単独辞職を強硬に拒否したので止むを得ず内閣総辞職を決定した。この倒閣の黒幕は一夕会と親交の深い中野正剛であり永田鉄山であった。


レース結果共鳴チェック

満州事変前夜----③

1927年に「現在及び将来に於ける日本の国防」で満蒙領有論を構想していた石原莞爾中佐は28年10月10日関東軍作戦主任参謀に就任し、翌29年5月14日板垣征四郎大佐が関東軍高級参謀となった。29年5月19日日本陸軍内に歩兵第3連隊長・永田鉄山大佐を中心とする佐官級の幕僚将校による一夕会が発足した。その主力メンバーは以下の通りである。

陸士15期河本大作(29年4月予備役) 16期永田鉄山・小畑敏四郎・岡村寧次・板垣征四郎 17期東条英機 18期山下奉文 21期石原莞爾 22期鈴木貞一・牟田口廉也 23期根本博 25期武藤章・田中新一・富永恭次らであり、彼等は天皇の統帥大権を侵し政党政治を蹂躙し、蒋介石スターリンルーズベルトの挑発にマンマと乗せられ、日本国民を戦争の惨禍に導いた大バカ者共である。

彼等は、陸軍人事を刷新し諸政策を強力推進する、つまり25年に軍縮を断行した宇垣一成派を追放すること。満蒙問題を優先して解決すること。驚くことに陸軍大学校校長・荒木貞夫中将、第一師団長・真崎甚三郎中将、近衛師団長・林銑十郎中将の3大愚将を盛り立てることを決議したのである。

その2日後の29年5月21日参謀本部内国戦史課長・岡村寧次大佐が、全陸軍の佐官級以下の人事権を持つ人事局補任課長に就任した。岡村は早速、人事局長に航空本部総務部長・小磯国昭少将が任命されるよう奔走したが失敗に終った。しかし30年8月永田鉄山大佐が陸軍の予算配分に強い発言力を持つ重要ポストである軍務局軍事課長就任に成功した。

29年7月関東軍石原莞爾中佐は「国運転回ノ根本国策タル満蒙問題解決案」と題する私案を作成した。その骨子には「満蒙問題ヲ解決シ得バ支那本部ノ排日亦同時ニ終熄スべシ。満蒙問題ノ積極的解決ハ単ニ日本ノ為ニ必要ナルノミナラズ多数支那民衆ノ為ニ最モ喜ブベキコトナリ。即チ正義ノ為日本ガ進デ断行スベキモノアリ。歴史的関係等ニヨリ観察スルモ漢民族ヨリモ寧ロ日本民族ニ属スベキモノナリ」と記している。

私は、軍事の天才と言われる石原が何故、軍事力を使わずに満蒙問題を解決しようとしなかったのか?女真族の聖地満州を国民政府・蒋介石支那の領土だと何故必死に主張するのか?それを考えて貰いたかった。蒋介石の希望通り認めてやれば済むことだったのである。それなりの条件、例えば日本の国家予算の100年分位は要求してもよかったのではないか? 

日本の敗戦後毛沢東満州に多数の漢人男性を送り込んで洗国、所謂混血を重ねた結果、女真族はこの世から姿を消してしまった。同じことがチベットでもウイグルでも繰返されていることを世界は非難しなければならない。そして米国に支那系の大統領が誕生することも充分あり得るのである。だからこそ有名無実化した日米安全保障条約に縋り付くのをやめて、自分の国は自分で守る決意をしなければならない!               

30年11月永田鉄山大佐は満州出張の際、石原莞爾中佐から敵陣を曲射弾道によって直撃を加え破壊する24センチ榴弾砲2基の送付を依頼された。巨大な榴弾砲は31年7月奉天の独立守備隊兵営内に据え付けられた。このように一夕会系幕僚が陸軍中枢を引き摺り、内閣を引き摺って満州事変を推進していったのである。


レース結果共鳴チェック

満州事変前夜----②

ソ連追出しに失敗した張学良は、その矛先を日本の権益と日本人に向けた。まず満鉄を自滅させるために、満鉄の平行線(打通線・奉海線)の輸送単価を安価に設定して運営させた。満鉄は30年11月以降毎日赤字続きに陥り、社員3,000人の解雇、昇給一ヵ年停止、家族手当・社宅料の半減、新規事業の中止、枕木補修一ヵ年中止、破損貨車の補修中止、民間事業への助成中止など大幅な支出削減を余儀なくされた。

さらに張学良は、満鉄の付属地に柵を巡らし通行口に監視所を設けて、大連から入る物品に輸入税をかけ付属地から持ち出す物品にも課税した。そして「盗売国土懲罰令」を制定し、これを過去に遡及して多数の朝鮮人農民が耕作する土地を奪った。これに抵抗して投獄された朝鮮人は約530人にのぼった。

加えて30年31年にわたり林業、鉱業、商業等の日本人企業に対して、満鉄付属地外の営業許可を一方的に取消し、警察に事業妨害を徹底させ経営不振に陥めた。奉天総領事から遼寧省政府に交渉しても「南京政府に直接交渉するように」と相手にされず、南京総領事が南京政府に交渉しても音沙汰無しであった。危機感を抱いた関東軍も再三にわたり交渉するが聞入れられることはない。

30年5月30日劉少奇統制下の満州省委員会の指令による、東満州の間島で暴動が発生した。総勢5,000に及ぶ共産パルチザン部隊は日本領事館、停車場、機関車、電灯公司、鉄道などに放火し日本人44人が殺害された。元ソ連軍特殊宣伝部長補佐官・レオニード・ワーシンは「北朝鮮首席金日成も共産パルチザンとして東満州一帯で活動していた」と証言している。

28年〜30年の在満州朝鮮人支那人との紛争は100件を超え、国民党政府は31年2月「鮮人駆逐令」によって朝鮮人を追出そうとした。行き場を失った朝鮮人農民は長春の西北20キロの万宝山に入植しようとしたところ、吉林省政府の警官隊は退去を求め、同年7月遂に支那人農民が大挙して朝鮮人を襲撃した。この事件を朝鮮の新聞が過大に報じたために、朝鮮半島で反支那暴動が起り華僑の店舗や家屋敷が襲われ100人以上の支那人が殺害された。

31年6月27日陸軍参謀・中村震太郎大尉と他3名が、大興安嶺の東側一帯を調査旅行をしていた際、張学良配下の屯懇軍に拘束され銃殺される事件が発生した。関東軍は新聞掲載を禁止して調査員を派遣し事件の核心を掴んだが、外交交渉に委ねられた。支那側は調査を約したが事実無根、日本人の捏造・宣伝と明言したため、8月17日関東軍は記事解禁し奉天特務機関が事件の全貌を公表した。

裁判もなしに殺害され遺体は焼かれて埋められ金品が奪われたという報道に、日本の世論は沸騰した。支那の非道を糾弾し幣原喜重郎外相の協調外交を軟弱外交と非難する声が高まり、日支間は緊迫した空気に包まれた。日本の世論を背景に関東軍武力行使の機会を窺うようになった。ことの重大さを認識した支那側がこれを全面的に認め「実行犯の関玉衛を取調べた」と日本側に伝達したのが9月18日の午後に至ってからで既に手遅れだった。この日の午後10時20分頃柳条湖事件が発生した。

こうして日本は米国及びスターリンの罠に嵌ってしまったのである。国際法やマナーを踏みにじって恥じぬ支那の伝統は、中国共産党習近平政権によって充分発揮されるようになったが、経済運営の失敗で共産党崩壊が近いと言われている。次なる軍事独裁政権は、前政権が締結したすべての国際条約、さらには国際的な借金まで「無効だ!」と主張するであろう。これが前政権を全否定し、墓まで暴く易姓革命思想なのである。


レース結果共鳴チェック

満州事変前夜----①

1928年6月第二次北伐が終り支那統一が実現した後、蒋介石・国民政府の外交部長・王正延は革命外交を打出した。革命外交とは相手国を無視した支那側の一方的な通告で不平等条約の全てを廃棄し無効にするという外交政策で、日本が日露戦争で獲得した旅順・大連(関東州)と満州鉄道の権益も対象とされた。この政策が満州事変勃発の直接の原因となる。

蒋介石面従腹背する張学良は1928年12月22日、ソ連との共同管理下にある電話局を奉天警察隊に占拠させ、中東鉄道の社旗を降ろし青天白日旗を掲揚した。ソ連は協定違反と非難したが、張学良は交渉を拒絶し「然るべき時に中東鉄道の排他的支配を回復する」という声明を発表した。

29年5月27日張学良はハルビンソ連総領事館を捜索して共産党員39人を逮捕した。7月18日ソ連は国民政府に国交断絶を通告。スターリンが警戒していたのは日本の関東軍の介入であったが、日本が中立の立場をとることが明確になったため、軍事侵攻が決定された。

ソ連軍は自衛を理由に満州国境地帯に侵攻し29年10月には本格的な戦闘が開始された。張学良軍は死傷者3,900人、行方不明1,800人、捕虜6,900人に上る大敗であった。12月22日原状復帰を内容とするハバロフスク議定書が調印されソ連軍は撤収したが、その後も支那側は議定書の無効を主張し再交渉を要求し続けた。(中ソ紛争)

ロスチャイルド等戦争屋は1929年10月24日ニューヨーク・ウォール街での株価を暴落させた。(暗黒の木曜日)1920年代にFRBの指示で、銀行が株券を担保に貸出しを増やしたために株価が高騰しバブルとなった。株価がピークを迎えるとFRBは政策を180度転換し銀行の貸出を抑えたのである。流通する資金量を故意に減らしたことが4年間にわたる世界大恐慌の原因となった。

この恐慌により16,000もの銀行が倒産し、その殆どをモルガンとロックフェラーが吸収・合併していった。また紙くず同然となった企業の株券も両者に買占められた。融資を返済できなくなった農家も広大な土地を没収されたため米国は飢饉に陥った。そして、これらの土地もウォール街の金融財閥の関係企業に買占められた。

懲役10年という罰則のもと米国国民全てが金貨や金塊を財務省で紙幣と交換することが義務付けられた。だが1939年末には兌換紙幣が廃止され紙幣と金は交換できなくなった。こうして合法的に金が強奪された。

日本銀行総裁を経た井上準之助浜口雄幸内閣(1929年7月〜)でも蔵相に就任した。彼はFRBの指示に従って緊縮財政を推進し、30年金解禁を実施した。旧平価で解禁したため円高となり輸出は不振、正貨の大量流出を招いた。このため企業の操業短縮と倒産、賃金引下げなど深刻な恐慌状態に陥った。生糸・繭価の暴落や30年の豊作による米価低落(豊作飢饉) 31年と34年の東北大飢饉で農家経営は破綻し、娘身売りが激増し小学校では欠食児童が増大した。(昭和恐慌)

ソ連は当時第一次5ヵ年計画(28〜32)で重工業優先政策を推進中で世界大恐慌の影響を受けることは殆どなかった。これによりソ連は農業国から工業国へと発展したが、農業は荒廃した。


レース結果共鳴チェック

張作霖爆殺事件----③

前出加藤康男氏によれば「蒋介石・国民党軍と張作霖・北方安国軍と戦っているさなかの27年7月張作霖の子息張学良は国民党に極秘入党し、国民党内の共産党分子と通じていた。爆殺された張作霖の跡を継いだ張学良は、28年9月8日それまで使用していた五色旗から国民党政府の青天白日旗に変え、国民党に降伏する。易幟です。この時、奉天城内外に青天白日旗と共に大量の赤旗が翻っていたことが確認されている。

実は張作霖の参謀長・楊宇霆張作霖を裏切り国民党に近づいていたのである。この事実を知っていたのが広東駐在武官の佐々木到一中佐で、次の手記を残している。『張学良や楊宇霆らの国民党との接合ぶりを見聞している予として、奉天王国を一度国民革命の怒涛の下に流し込み、しかる後において我が国としてとるべき策があるべきものと判断した』これは張学良らの謀反に乗じて張作霖を排除し、国民党に奉天を支配させた上で手打ちをする計画だと読める。

常蔭槐は交通委員会副委員長で京奉線をグリップしている鉄道のプロである。彼が楊宇霆から指示され機関士あがりの工兵、工作員を使い機関区で張作霖のお召列車の天井に爆薬を仕込んだと思われる。爆破された時、張作霖の列車はかなり速度を落としていた。通常の列車はこの現場を時速約30キロで走行するのに、残された車両の状況から張作霖列車の速度は10キロ程度と判明している。

関東軍参謀長・斎藤亘の所見によれば『列車内部に策応者ありて、その速度を緩ならしめかつ非常制動を行いし者ありしに非ずや。緩速度たらしめし目的は、要するに所望地点にて列車を爆破せむと欲するものに非ずや』と指摘している。この策応者つまり機関士に、現場通過時に速度を落せと指示したのも常蔭槐でしょう。1929年1月11日張学良は楊宇霆と常蔭槐を酒席名目で自宅に招き『謀反を企てていた』と称して射殺。父親殺しの真相を知っている2人の口を封じたのでしょう」と言うのである。

近現代史研究家田中秀雄氏は「佐々木到一中佐が著した『ある軍人の自伝』でも書かれているように河本大作大佐と佐々木は親しい関係である。佐々木が仲介して東宮鉄男と河本も広東で親しくなっている。京奉線を跨ぐ満鉄の陸橋に爆薬を仕掛けたのは東宮中尉(当時)である。東宮が克明につけていた日記には張作霖爆殺事件の前後二週間ほどの記述は破棄されている。

日本の陸軍士官学校砲兵科を卒業した楊宇霆と河本との間に連絡があったのは日本政府も知っていた。これは外交文書に報告書がある。(中略)つまり日本とソ連の願望が偶然一致した可能性はある。従って爆殺事件へのソ連関与説は成立ち得るが、私は限りなく小さいと考える。

張学良は楊宇霆と常蔭槐を呼出し射殺した。その8日後の満州日日新聞に張学良が『張作霖爆殺の真犯人は楊宇霆だ』と発表したと出ている。その2日後には殺害関係者にロシア人5名がいると記事が続く。しかしこのロシア人は金に困った亡命ロシア人のようだ。ただ亡命ロシア人を装った特務機関員だった可能性はある。張作霖がやろうとしたのは日本の満州利権の無慈悲なる回収だった。張学良もその遺志を受継いでさらなる排日手段を行使するようになった」と記している。


レース結果共鳴チェック