スターリンの戦略=日ソ中立条約

41年(昭和16)3月12日松岡外相が訪欧の途についたとき、独ソの友好関係は既に崩れ
ていました。前年11月独ソ国交調整のため、ソ連首相兼外相モロトフを招き交渉した
が不調に終り、ヒトラーは12月18日ソ連を粉砕するバルバロッサ作戦を極秘に指令。

大歓迎を受けた松岡は3月26日からヒトラーやリッベントロップらと会談を重ね、独
ソ関係が悪化していることから日ソの提携を歓迎しない意向が示され、加えて英国打
倒のため日本がシンガポールを攻撃するよう要求され松岡は個人として賛成します。

米国の参戦を防ぐという大戦略は、独の意向に確信がもてないまま松岡は帰路モスク
ワを訪問。往路モスクワに立ち寄った時、モロトフに示しておいた条約案を再交渉。

交渉はソ連の常套手段で一度は物別れとなり、4月13日ギリギリの段階で日ソ中立条
約が成立します。46年4月までの五か年間有効という長期に亘る異例な条約で、日本
英米と戦わせるスターリンの戦略からいっても、優秀な諜報機関により独がやがて
攻めてくると判っている状況からいってもソ連の大成功でした。

4月22日帰国した松岡は、陸海軍も賛成している日米諒解案に猛反対し、この案が到
達に至る際双方が行った妥協をすべて否定する日本側修正案を5月11日、米側に提案。

ハルは回想録で「日本は自分の利益ばかり主張し、他国の権利や利益を殆ど考慮に入
れていなかった」と記しています。小人物の意固地が国の運命を翻弄したのである。

天皇は独白録で「松岡は帰国後、別人のようにドイツ贔屓になった。おそらくはヒト
ラーに買収でもされたのではないか----彼は他人の立てた計画には常に反対する特別
な性格を持っている」と辛辣に語っております。

日米戦争を回避するチャンスが少しでもあったものを、みすみす逃したことは惜しみ
て余りある。


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