ヒトラーの無謀なソ連侵略

41年(昭和16)4月頃から大島浩駐独大使は、頻りにヒトラーソ連との開戦を決めた
ようだと打電。陸軍省軍務局は独の二正面(英とソ)作戦は有り得ないと信用しません。
参謀本部作戦部長田中新一は独ソ開戦となれば独に呼応してソ連を攻撃すべしと主張。

6月22日午前3時15分ドイツの爆撃機隊はソ連空軍基地10ヶ所、前進飛行場66ヶ所を
奇襲攻撃。その朝だけでソ連空軍は1,200機を失い、数日で制空権を喪失。空爆以前
独のブランデンブルク特殊部隊がソ連軍の制服を着てソ連の後方に落下傘で降下潜入
し、通信網の切断、重要橋梁の奪取、不安と混乱拡大のための工作をしていたのです。

地上では独陸軍300万を主力に、フィンランドルーマニアハンガリー・イタリア
軍をも加え猛攻撃を敢行します。しかし冬になるとソ連の抵抗が強くなり進撃は止り、
米国の武器貸与等の援助も相まって戦争は長期化。日本の中国侵略と同じなのである。

22日の夕方松岡外相は天皇に拝謁し、日ソ中立条約を破棄し、日本はソ英米を敵とし
て戦うことになる旨奏上。驚いた天皇は近衛首相に松岡忌避の意向を明らかにします。
30日オット駐日独大使は松岡にシンガポールよりも今はソ連を叩くべきと迫ります。

近衛は三国同盟破棄を松岡と陸相海相に書面で申入れたが拒否されます。独軍の驚
異的な強さに、危険な二正面作戦を犯しても独軍が負けるなどとは考えないのです。

近衛の手記には7月2日の御前会議は松岡や参謀本部の北進論を抑え、その代償として南部仏印進駐を認めたとあるが、実際は対ソ戦は時機が至れば参戦すると決定されたのである。またその文中にある「対英米戦も辞せず」は単なる御題目に過ぎなかったが、これが後の日本を対米戦争に追込む要因となるのである。これこそ官僚作文の大弊害。

この御前会議の内容を正確にソ連に報告したのはゾルゲであり、外務省の暗号解読で
米国にも筒抜けでした。

7月18日近衛は天皇の意向もあり松岡外相を外すため内閣総辞職を断行。豊田貞次郎
海軍大将を外相に起用、他の閣僚は全員留任させて第三次近衛内閣を発足させます。

松岡の言動には矛盾撞着が多く、こうした人物を登用した近衛の責任は重大である!


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