朝鮮人虐殺の真実------③

1923年9月2日東京全市、京浜地区に戒厳令が布かれたが、朝鮮人の暴動は治まることなく燎原の火の如く広まっていた。山本権兵衛内閣の新任式は帝都の空が真っ赤に燃え上がっていた2日の夕刻、赤坂離宮で行われた。戒厳令宣告に尽力した水野錬太郎に代わって内務大臣に就任したのは、4月まで東京市長だった後藤新平である。後藤は国体=摂政宮の安全を維持するために、朝鮮政策を従来の武断から宥和に急転換した。

最初の異変は東京朝日新聞の4日付手書き号外に現れた。「武器を持つ勿れ。朝鮮人は全部が悪いのではない。鮮人を不当にイジメてはならぬ、市民で武器を携へてはならぬと戒厳令司令官から命令を出した」加えて、市内に残留する朝鮮人を千葉県習志野、下志津の兵舎に収容し衣食住を安定させ、彼等を救援することが4日朝閣議決定され、それに基づいて山本首相名による告諭記事が5日の新聞に告知されるなど、急転直下の方針転換が計られ、自警団は次第に終息していった。

湯浅倉平警視総監は「この未曾有の惨状に対し罹災民の狼狽することは然ることながら、鮮人暴行の風声鶴唳に殆ど常軌を逸した行動に出づる者のあったとは遺憾千万である。一例をいへば鮮人が爆裂弾を携へてゐるといふので捕へて見ればリンゴであったともあり 云々」(東京日日新聞 9月8日)このように、恰もすべての朝鮮人は無実である如く印象づけに躍起となったのである。

こうした記事が流れる一方で、扱いは小さくなったものの朝鮮人襲撃のニュースは出回った。それがピタリと止んで急転回し、朝鮮人襲来記事を流布すれば処罰するとまで言い出したのは9月7日からだった。前日に三大緊急勅令(暴利取締勅令・支払猶予の緊急勅令・流言浮説取締勅令)が公布されたのである。この勅令によって新聞各紙は真相報道を断念せざるを得なくなり、16日になると後藤は新聞、雑誌等への検閲を強化する命令を発した。

9月末後藤は、政府の方針転換に憤慨した警視庁官房主事・正力松太郎を呼んで次のように言った。「正力君、朝鮮人の暴動があったことは事実だし、自分は知らないわけではない。だがな、このまま自警団に任せて力で押し潰せば、彼等とてそのまま引下がらないだろう。必ずその報復がくる。報復の矢先が万が一にも御上に向けられるようなことがあったら、腹を切ったくらいでは済まされない。だからここは、自警団には気の毒だが引いてもらう。ねぎらいはするつもりだがね」

そして10月末、大正デモクラシーの立役者、東大教授の吉野作造は「ドキュメント関東大震災」と称する驚天動地の論文を発表する。「震災地の市民は、震災のために極度の不安に襲はれつつある矢先に、戦慄すべき流言蜚語に脅かされた。之がために市民は全く度を失ひ、各自武装的自警団を組織して、諸処に呪ふべき不祥事を続出するに至った」

「此の流言蜚語が、何等根抵を有しないことは勿論であるが、それが当時、如何にも真しやかに然かも迅速に伝へられ、一時的にも其れが全市民の確信となったことは、実に驚くべき奇怪事と云はねばならぬ」「警視庁幹部の説によれば流言の根源は、一日夜横浜刑務所を解放された囚人連が、諸所で凌辱強奪放火等の有らゆる悪事を働き廻ったのを、鮮人の暴動と間違へて、何処からともなく、種々の虚説が生まれ、殆んど電光的に各方面に伝波し、今回の如き不祥事を惹起するに至ったのだといふ」

吉野は16年、中央公論に巧みなレトリックをもって主権在君の天皇制と主権在民のデモクラシーは決して矛盾しないと発表していた。また吉野が18年に組織した「東大新人会」は過激なマルクス主義者、労農運動家、無産主義者を輩出する母体となった。つまり、後藤新平吉野作造を利用して史実を歪曲し、朝鮮人に誤ったシグナルを送ってしまったのである。摂政宮皇太子(昭和天皇)はこれを喜ぶであろうか?


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