満州事変----④

斎藤実内閣は33年3月11日国際連盟脱退を閣議決定した。3月27日日本政府は国際連盟脱退に関する詔書を発表すると共に連盟に脱退を通告した。同年4月失意のなか帰国した松岡洋右を待っていたのは、国民の大歓声だった。新聞は「松岡の姿は凱旋将軍のようだった。我国ははじめて我は我なりという独時の外交を打ち立てた」と報じ、松岡は一躍、国民的英雄となった。このように日本人は新聞報道に扇動され、ドンドン理性を失っていった。ムードに流されやすい国民性は今も変わらない。

33年5月31日河北省塘沽において関東軍参謀副長・岡村寧次少将と支那代表・熊斌陸軍中将との間で、塘沽停戦協定が締結された。これにより柳条湖事件に始まる満州事変の軍事的衝突は停止されることになった。結局、蒋介石満州の主権が支那にあることをリットン調査団に認めさせた。これは米国の主権はフィリピンにあると認めるようなもので、同調査団には支那を共産化するロスチャイルド等の強い意志が働いた。だから後年、反共に徹した蒋介石トルーマンに裏切られるのである。

そのフィリピン外相が満州国の豊満ダム(41年稼働)を視察に訪れ「フィリピンはスペイン植民地として350年、米国の支配下で40年経過している。だが住民の生活向上に役立つものは一っも造っていない。満州は建国僅か10年にしてこのような建設をしたのか」と語っている。満州は当時の支那人にとって戦乱も飢饉もなく、私有財産も安全も保障され、しかも進んだ教育・医療を受けられた桃源郷であった。王道楽土は決して政治的宣伝ではなかったのである。(黄文雄)

満州の荒土の開墾は難儀を極め開発支援のために、一時期日本のGDPの43%を持出した。(草柳大蔵・実録満鉄調査部) このように日本政府は満州国に対しても台湾・朝鮮半島パラオと同じ政策を実行した。だから台湾・パラオの人々は現在に至るも日本人に感謝し親日である。米国政府つまりロスチャイルド等に反日を命令された支那・韓国・北朝鮮はどうしても歴史を捏造しなければならないのである。

ところが戦後70年談話に関する有識者会議「21世紀構想懇談会」で座長代理を務めた北岡伸一国際大学長は報告書のなかで「日本は満州事変以降、大陸への侵略を拡大し云々」と強調した。ネイティヴアメリカンを皆殺しにしてその土地を強奪した先祖をもつ米国政府が「侵略」の定義をすべきで、北岡如きが決めつけることは僭越も甚だしい。史実と異なる自虐史観の押付けはいい加減にしろ!

さて、より長大となったソ満国境線防衛を巡り33年6月陸軍全幕僚会議が開催され、参謀本部第三部長・小畑敏四郎少将(皇道派)は「攻勢には出ぬが支那と提携して背後を固め対ソ戦争の準備を軍をあげて行う」と説いたが、参謀本部第二部長・永田鉄山少将(統制派)は対支一撃論を主張して譲らなかった。この論争が両派確執の発端となった。同年8月小畑と永田は共に参謀本部を去った。喧嘩両成敗である。

34年1月皇道派の重鎮荒木陸相が大酒の挙げ句肺炎となり辞任し後任に越境将軍・林銑十郎が就任した。その下で軍務局長となった永田を中心とする統制派が皇道派の一掃を図った。同年11月の十一月事件や35年7月の真崎教育総監罷免、8月の相沢事件(永田局長惨殺)などを通じて両派の抗争は激化し、36年の二・二六事件で頂点に達するのである。

二・二六事件の時、両派に与しない参謀本部作戦課長・石原莞爾大佐は東京警備司令部の一員であった。そこに軍事参議官・荒木大将がやって来た。石原は「バカ!お前のようなバカな大将がいるからこんなことになるんだ」と怒鳴りつけた。荒木は「なにを無礼な!上官に向かってバカとは軍規上許せん!」石原は「反乱が起っていて、何処に軍規があるんだ!」両者は危うく乱闘になりかけたが、居合わせた安井藤治東京警備参謀長が間に入りその場を治めた。石原は荒木の無責任・無能ぶりに我慢がならなかったのである。


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