満州事変----⑤

1933年3月4日ロスチャイルドに魂を売ったルーズベルトが米国大統領に就任した。ルーズベルトのフルネームはフランクリン・デラノ・ルーズベルトという。デラノは彼の母方の家名であり、デラノ家はアヘン戦争以降アヘン貿易と支那人奴隷貿易で巨万の富を築いた家系である。彼の狙いは支那に対する米国の利権獲得が最大の目標であり、彼は満州国を建国した日本に対して強い憤りと敵意を抱いていた。

ルーズベルトニューディール政策を強力に推進し、フィリピンの独立を約束しソ連を承認して国交を回復した。39年11月には武器輸出を禁じた中立法を改正し英国・支那への武器輸出を行った。つまりこの時点で米国は世界大戦に参加していたのである。尚、世界大恐慌からの脱却のためのニューディール政策は事実上失敗し、大量の失業者を救済できたのは世界大戦に参加した直後の42年以降のことである。

ソ連スターリン独裁体制のもと始まった第一次五ヵ年計画は、急速な工業化と集団化を目指したため、餓死者を出すなどの問題を踏まえて消費財生産などの軽工業部門の育成を目指して、33年から第二次五ヵ年計画が始まったが、ヒトラーの出現でこの計画は軍事物資中心の重工業生産となった。35年3月ソ連は東清鉄道の北満鉄路全線の権利を満州国に1億4,000万円で売却し満州から撤退した。

関東軍及び支那駐屯軍は塘沽協定締結以降、支那華北五省(河北・察爾・綏遠・山西・山東)に緩衝地帯をつくるべく、防共を掲げて傀儡政権樹立の工作を行った。支那駐屯軍は東北抗日義勇軍が河北省東部の非武装地帯に入ったことや、停戦地域での孫永勤軍の活動、天津日本租界での親日支那人暗殺事件など50余の排日事件が続発したのを利用し河北省全域からの国民党軍の撤退を求め35年6月10日梅津・何応欽協定を締結した。

また察爾省では35年6月に張北で日本の特務機関員4名が国民党第29軍に一時監禁された事件を口実に29軍の副軍長・秦徳純との間に察爾省の非武装地帯化を求めた土肥原・秦徳純協定を締結した。陸軍大臣・川島義之は10月4日の閣議で「華北自治奨励案」を提出し華北分離は日本の国策となった。さらにニ・二六事件後成立した広田弘毅内閣は華北五省を国民政府から切離して日本の支配下に置く計画を進め兵力を増強した。

この計画の総仕上げが華北五省における自治運動であった。35年10月特務機関が北京東南部の香河県城で暴動を引起させ、買収した支那人自治を宣言させた。また天津でも支那人を唆して国民党に自治を申請させた。これらの運動を背景に河北省東部の非武装地帯に、11月25日親日派の殷汝耕を首班とする冀東防共自治委員会を成立させ、日本からの密貿易を公認(アヘン密売を含む)させた結果、支那の関税収入が激減することになった。

蒋介石は日本の華北自治化要求に応え、またそれを牽制するため宋哲元を委員長とする冀察政務委員会を北平(北京)に、また内蒙古には徳王を首班とする蒙疆自治政府を成立させた。こうして日本側は事実上華北の広大な地域を国民政府支配から切離し、中立化することに成功したのである。この日本の策謀は支那の主権を著しく侵害し、蒋介石統一国家造りを妨害するもので、支那国内の世論は内戦停止・一致抗日気運が高まった。そうしたなかで36年12月西安事件が勃発するのである。

支那とは決して戦争せずにソ連軍に備えるとする皇道派二・二六事件によって陸軍中枢から悉く排除された。私は極めて安易な支那一撃論を主張する東条英機武藤章池田純久・服部卓四郎・辻政信ら統制派に権力が集中してしまったことが残念でならない。蒋介石と共に支那共産軍を掃討するという選択肢もあったと思うのである。


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