西安事件・盧溝橋事件

1935年7月25日から8月20日にかけて第7回コミンテルン世界大会がモスクワで開催された。根本政策の第一は理想論を捨て各国の事情を考慮して現実的に対応し、大衆を傘下に呼び込みファシズム及びブルジョワ機関へ潜入し内部から崩壊させること。第二に主たる目標を日本・ドイツ・ポーランドとし、そのために英・米・仏とも提携して個々を撃破すること。第三に日本を赤化するために支那を重用することなどが決議された。

日本国内では22年に日本共産党が結成されると、主要府県の警察部に特別高等課を設け、25年に治安維持法を制定し取締の法的根拠を整備した。28年共産党員1600名を検挙した三・一五事件をうけ、赤化への恐怖を理由に全府県に特別高等課を設け、主要警察署には「特別高等係」を配置し全国的組織網を確立した。やがて日本が戦時色を強めるにつれ挙国一致体制の障害となる団体に対する監視や取締も行われるようになった。コミンテルンの攻撃目標とされた日本とドイツは36年11月25日日独防共協定を締結した。

スターリン支那共産党に対し、蒋介石と日本軍を戦わせて両者を共倒れにして、支那の共産革命を成功に導くよう指令した。36年10月蒋介石支那共産党の根拠地に対する総攻撃を命じたが、支那共産党接触していた張学良と楊虎城は攻撃を控えていた。蒋介石は攻撃を督促するため12月4日に西安を訪れた。12月12日9時頃蒋介石は張学良の拉致実行部隊に監禁されたが、蒋介石は張学良らの要求を強硬に拒絶した。

支那全国の将軍から国民政府への支持と張学良討伐を要請する電報が続々と到着した。国民党軍のドイツ軍事顧問団ファルケンハウゼン中将はドイツ人顧問を伴った戦車旅団、ドイツ式訓練を受けた第83師・第87師を西安に派遣し反乱軍への奇襲攻撃と共産軍への空爆を行い、蒋介石釈放交渉を行うとする作戦を献策した。しかし、支那共産党周恩来等が西安に入り会談が行われ、蒋介石宋美齢との間に8項目に関する合意ができて蒋介石は12月24日解放された。

スターリン蒋介石に3億ドルの軍事援助と共に人質蒋経国(蒋の長男)も37年4月解放した。この当時、朝日新聞記者でソ連のスパイであった尾崎秀実は、スターリン蒋介石の暗殺を望んでいないという情報をもとに、蒋介石の生存や抗日統一民族戦線の結成など事件の顛末を正確に予測した。これが近衛文麿の目に止り、近衛の私的機関「昭和研究会」へ参加することになる。以後、日本の中枢情報がゾルゲ諜報団を通じてスターリンに筒抜けとなるのである。

37年6月4日その近衛が総理大臣となった。7月7日夜半、北京の南を流れる盧溝河に架かる盧溝橋の近くで、現地に駐屯していた日本軍が夜間演習を行っていたところ不意に暗闇から銃撃を受けた。橋本群陸軍中将は「実弾を持たず発砲されたため応戦できず、非常に危険な状況に置かれた」と証言している。実は国民党軍も日本軍同様銃撃を受けていたのである。7月8日支那共産党は対日全面抗戦を呼びかけた。つまり盧溝橋事件は支那共産党の謀略だったのである。

49年10月1日中華人民共和国成立の日に支那共産党周恩来首相は「あの時(盧溝橋事件)我々の軍隊が日本軍、国民党軍双方に発砲し、日華両軍の相互不信を煽って停戦協定を妨害し我々に今日の栄光を齎したのだ」と発言している。また支那共産党自身「7・7事変は劉少奇同志(後の国家主席)の指揮する抗日救国学生の一隊が決死的行動を以って、党中央の指令を実行したもの」と自ら事件を引起したことを表明している。


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