通州事件・第二次上海事変

1937年7月29日午前2時通州事件が発生した。この事件は日本の教科書に一切掲載されていない。通州の日本軍守備隊は主力が南苑攻撃に向かっていたため留守部隊110名程度であった。3,000人の冀東防共自治政府保安隊が教導総隊長・殷汝耕を捕獲し、日本人居留民260名を惨殺した。遺体を損壊する残虐非道な支那人の正体をYou Tubeの動画等で確認して戴きたい。

中華民国に駐在するドイツ軍事顧問団団長ファルケンハウゼンは「支那の敵は日本が第一、共産党を第二」と考え、35年10月1日漢口と上海にある租界の日本軍に対する奇襲を提案し、36年9月12日には華北の日本軍を攻撃するよう進言し、各地要点に於ける包囲攻撃陣地の構築・増強、後方自動車道路の建設、通信の改善、民衆の組織訓練等を行った。加えて32年の上海停戦協定に違反して保安隊と称する中央軍を非武装地帯に侵入させ陣地を構築した。

37年8月12日未明支那軍屈指の精鋭部隊約3万人が国際共同租界の日本人区域を包囲した。対する日本軍は約4,000人余であった。8月21日中華民国ソ連との間で中ソ不可侵条約が結ばれた。11月5日上海南方60キロの杭州湾に面した金山衛に上海派遣軍第10軍が上陸した。退路を断たれると動揺した支那軍は11月9日一斉に退却を始めた。日本に勝利する積りも無い蒋介石は第一次上海事件と同じパターンで敗退したのである。

第一次近衛内閣の陸軍大臣杉山元大将は天皇に向かって「支那事変は2ヵ月程度で片付く」と楽観論を述べていた。その杉山は無責任にも38年6月3日病気と称して辞任してしまうのである。私は陸大の成績順によって陸軍の中枢ポストを占めるという悪習が日本を滅ぼしたと思っている。戦略より戦術を優先する教育が好戦的な将軍を産み出したのである。仮令成績が悪くても、どんなことをしても日本人の生命を守り抜くという強い信念をもつ軍人が必要なのである。

第二次上海事変終結こそ支那撤退のチャンスであった。在支邦人総てを満州国に移民させ支那から一切、手を引き満州国境を固く防衛していれば歴史は大きく変わっていたと思う。広島・長崎の原爆投下も無かったと思うのである。さて、マンマとスターリン蒋介石の計略に乗せられた日本軍は上海から南京、そして重慶へと支那大陸の奥地へ引き摺り込まれ、莫大な損耗を強いられることとなった。

37年12月1日蒋介石ソ連参戦の督促に対して、スターリンは「日本の挑戦も無く参戦すると侵略行為と見做され国際世論で日本が有利になる」と単独参戦を拒否した。12月7日南京郊外の外囲陣地が突破され南京は日本軍の砲撃の射程に入り、蒋介石は南京を離れた。この時蒋介石と行を共にしようとする南京の人々が列車に殺到したため国民党軍が大量の南京人民を射殺したことを日本軍の仕業にしようとしたことが南京大逆殺の基点となるのである。

以下は遠藤誉女史の最新スクープである。39年、毛沢東中共スパイ潘漢年を上海にある日本外務省の出先機関「岩井公館」に潜り込ませた。潘漢年は早くから潜り込んでいた袁殊に頼み、上海副領事・岩井英一と面会。その後重慶に常駐していた周恩来からの国民党軍の軍事情報を日本側に提供した。その見返りに岩井は当時の警官の10年分の年収(4000香港元)に相当する情報提供料を毎月支払った。

日本外務省との共謀に味をしめた毛沢東は、日本軍と直接交渉するよう命じた。潘漢年は岩井に「華北での日本軍と中共軍との間の停戦をお願いしたい」と申し出た。潘漢年は岩井の仲介で南京にある最高軍事顧問公館に行き、「梅機関」を主管する影佐禎昭大佐に会い、その影佐の紹介で国民党南京政府汪兆銘主席に会い、中共軍と日本軍との和議を申込んだ。つまり敵の敵は味方なのだ。日本軍との戦いは蒋介石に任せ、中共軍はその間に強大化していくという毛沢東の戦略であった。


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