日米開戦の原因

日本時間1941年12月8日未明、ハワイ時間12月7日日本海軍機動部隊はハワイオアフ島真珠湾にあった米国海軍の太平洋艦隊と基地に対して奇襲攻撃した。翌日ルーズベルトの要請により米国議会は米国と日本は開戦したと宣言した。12月10日ヒトラーは軍部の反対を押切って米国へ宣戦布告し、第二次世界大戦はヨーロッパ・北アフリカのみならずアジア・太平洋を含む地球規模の戦争へと拡大した。

米国の連合国への支援は武器援助に留まっていたが、真珠湾攻撃を受けて米国世論は一気に参戦へと傾いた。さらに日米交渉打切りの文書を渡す前に攻撃を始めたこと、日本が数日から数週間前に戦争準備を始めていたことが明らかなことから、真珠湾攻撃が「卑劣な騙し討ち」として宣伝されることとなった。「何をおっしゃるアメリカさん!騙し討ちはアナタ方でしょ!」

米国民間人パイロットにより結成された、通称フライング・タイガースは支那国民党軍に協力して日本軍機を撃墜した部隊だが、これまで民間義勇軍であり米国陸軍省や米国大統領とは無関係であるとペンタゴンは主張してきた。ところが91年7月6日付ロサンゼルス・タイムズ紙は、今までの主張を覆して「米国務省フライング・タイガースの生存者100人を退役軍人と認定した」と報道したのである。

これは日本の真珠湾攻撃以前に中立国であった筈の米国が、自国の中立法を侵して日支事変に介入し、宣戦布告なしのスニークアタックを日本にしたと米国政府が公的に認めたことに他ならない。隊員の給料は月600ドルで、日本軍機一機撃墜ごとに500ドルのボーナスが支給されるという破格の条件で募集された。フライング・タイガースが米国を出発してビルマに到着したのは41年春のことであった。

米国は日本への輸出を自由に禁止できるように、39年7月26日友好親善の礎となってきた日米通商条約の破棄を一方的に通告した。以後、米国は航空機燃料、機械、屑鉄、非鉄金属などほぼ全ての材料・製品に漸次輸出を禁止した。またフィリピン・南米から日本への輸出を禁止させ、英国・オランダに対して東南アジアから日本へのゴム、錫などの輸出を禁止させた。

さらに米国は日本とオランダとの石油輸入交渉を妨害し、インドネシアからの石油輸出を禁止させ、加えて日本船のパナマ運河の通行まで禁止した。尚、航空機やその部品の日本への輸出禁止は通商条約破棄以前に行われていた。(ABCD包囲網)41年7月25日米国は在米日本資産を凍結し日本の商業活動を停止させ、同年8月1日には石油の全面輸出禁止に踏切った。正にこれらの米国の数々の挑発は日本への宣戦布告と見做すべきである。

41年の日米交渉は2月12日の野村吉三郎駐米大使と国務長官コーデル・ハルの会談以降、延べ45回行われ、同年11月26日ソ連のスパイで財務次官補のハリー・ホワイトが作成したハル・ノートが手交された。日本はハル・ノート支那及び仏印からの全面撤兵を満州国まで否定されたと憤り太平洋戦争開戦となった。だったら最後まで粘って「満州国譲渡」を中心テーマとして会談を引伸ばすべきであった。何故なら開戦した12月8日はモスクワに迫ったドイツ軍が極寒の中、撤退を開始した時だからである。

ドイツの勝利を期待するのであれば暫く独ソ戦を観察して米国との戦争は絶対避けるべきであった。米国との戦争が不可避とするならば、まず日支事変を解決しドイツに類が及ばぬよう三国同盟も解消すべきであった。またルーズベルトは選挙では「戦争に介入しない」と宣言をして当選しており、参戦したくてもできない状況にあったことを最大限に利用すべきであった。余りにも短絡的な日本陸軍首脳の無策・無能を嘆かざるを得ない。


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