米軍の残虐非道

太平洋戦争中の米軍による日本人に対する残虐行為は、人種差別に根ざすものだと英国人ジャーナリストのラッセル・スーパーは述べている。「米国人は絶望的になっている敵国人を殺戮することに気が咎めなかった。米国の高官連中は公然と『日本人を殺すことはシラミを殺すよりも悪いことではない』と言明した。この残虐性は広島・長崎でその頂点に達することになる。

44年6月15日からのサイパンの戦いでは日本兵41,000人余が戦死、25,000人の日本人住民のうち10,000人は死亡したとされる。日本人住民は日本兵の保護もなく、戦場を逃げ回り、挙句の果てには自決や玉砕を強要されて死んでいった。田中徳祐は44年3月にサイパンに赴任し大尉となった。彼は中隊を率いて執拗に米軍に夜襲をかけ何度も意識を失いながら生き残った兵士を集めては夜襲をかけた。田中は45年12月になって日本陸軍の降伏命令を要求し47人の兵士と共に降伏した。

47年に復員した田中は小学校教師となった。そして戦友や遺族、民間人の犠牲を思って毎日書き続けたノートをもとに雑誌に寄稿した。しかし米軍兵士の残虐行為、それを目撃した日本兵の復讐心などは占領そのものに影響を与えると判断され、GHQの検閲で出版できなかった。79年小学校校長を最後に退職した後は、絵を描いたり短歌を作ったりの日々を過ごし、遂に83年「我ら降伏せず―サイパン玉砕戦の狂気と現実」を出版した。以下はその抜粋である。

44年7月9日この頃は日本軍の組織的な抵抗は無くなり、掃討戦の様相を現してきた。敵は流暢な日本語でジャングル地帯に童謡を流し投降を促す放送を始めた。「米軍は虐待しません。命が大切です。早く出てきてください」ところが米軍は投降呼びかけの放送とは裏腹な、人道上許し難い残虐な行為をしだした。

それは日本軍は飛行場を見下ろせる洞窟にいてその距離1キロ位先で展開された。三方から追われた数百の日本住民が逃込み捕われた。幼い子供と老人が一組にされ滑走路の奥へ、婦女子が全員素っ裸にされた。そして無理矢理トラックに積み込まれた。そして無理矢理積み込まれた順にトラックは走り出した。婦女子全員が「殺して!殺して!」と絶叫していた。

その絶叫がマッピ山にこだまし次々とトラックは走り出し彼女達の声は遠ざかっていった。なんたることをするのだ!小銃だけではどうすることもできず、此方の位置も知れてしまう。この悲劇をただ見守るしかなかった。この婦女子はその後一人として生還しなかった。

婦女子が連れ去られた後、滑走路の方から子供老人の悲鳴があがった。ガソリンが撒かれ火が点けられた。飛び出してくる老人子供達。その悲鳴。「おい!もう我慢ならん」吉田軍曹が一発撃った。何の効果も無く敵は無関心。火から逃れ出ようとする子供や老人を、周囲に居る敵兵はゲラゲラ笑いながらまた火の中へ突き返す。死に物狂いで飛び出してくる子供を再び足で蹴り飛ばしたり、銃で突き飛ばしては火の海へ投げ込んでいる。

二人の兵隊が滑走路際にいた泣いている赤ん坊を見つけ、両足を持って真二つに引き裂いて火の中へ投げ込んだ。「ギャッ」という悲鳴。人間が蛙のように股割きにされ殺されてゆく。彼等はその行為を平然としてやり大声で笑い得意になっていた。日本軍は手を出せずただ合掌し霊を弔うほかなかった。


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