日独伊三国同盟

1933年国際連盟を脱退した日本陸軍内部では、国際的孤立を防ぐため同様に連盟を脱退したドイツ・イタリアと接近すべしという主張が唱えられた。ソ連では35年7月の第7回コミンテルン大会で日独を敵と規定するなど、反ソで両国の利害は一致していると考えられた。36年11月25日日本政府は日独防共協定を締結し、翌年の11月6日イタリアも参加して日独伊防共協定となった。

39年5月11日満州国西部の国境紛争によるノモンハン事件が勃発した。ソ連ゾルゲや尾崎秀実らによる諜報活動で日本側の不拡大方針を熟知し、全面戦争を恐れることなく大兵力の投入に踏切った。関東軍ソ連・モンゴル軍の戦車部隊に火炎瓶等で対抗した。ソ連戦車には逃亡を防ぎ督戦のために乗員ハッチ外側から施錠がなされていたという。

ノモンハン事件で日ソ戦闘中の39年8月23日犬猿の仲と言われたヒトラースターリンが手を結んだ。この独ソ不可侵条約は互いの勢力拡大のための一時的な協調に過ぎない。8月25日平沼騏一郎内閣は日独同盟の締結交渉中止を閣議決定し、8月28日「欧州の天地は複雑怪奇なる新情勢を生じた」ために同盟交渉を打ち切ると声明し責任をとって総辞職した。

英仏は8月25日ポーランドと相互援助条約を締結した。しかしヒトラーロスチャイルド等の脚本に従って、9月1日ポーランドに侵攻した。英仏は9月3日ドイツに宣戦布告し第二次世界大戦が開始された。9月15日ノモンハン事件の停戦協定が成立した。日本側の戦死・傷病者18,747名、ソ連側戦死・傷病者は25,655名であった。9月17日ソ連ポーランド東部国境から侵攻を開始した。何故か英仏はソ連に対しては宣戦布告を行わなかった。

39年9月ソ連軍はバルト3国にそれぞれ相互援助条約を強要し進駐・占領した。11月ソ連の領土交換要求をフィンランドが拒否しソ連から開戦した。12月フィンランドの訴えにより、国際連盟ソ連を侵略国として除名した。ドイツは40年4月デンマークノルウェーを不法軍事占領した。5月オランダ・ベルギーに侵入し、5〜6月ダンケルクで英仏軍30万を包囲したがその大部分は海路脱出した。6月10日ドイツの優勢に便乗しイタリアが地中海戦線を形成した。ドイツ軍は6月14日パリを無血占領した。

39年8月30日組閣した阿部信行首相は世界大戦不介入方針をとり支那事変解決に努めたが、40年1月16日親元の陸軍の支持を失って総辞職した。阿部内閣の後を受けて親英米派的な米内光政が組閣した。6月ドイツがフランスを降すと、日独伊三国同盟の締結を要求する陸軍は近衛文麿の新体制運動に期待し、陸軍大臣畑俊六を辞任させて後継陸相を出さず米内内閣を総辞職に追込んで、40年7月22日第二次近衛内閣を発足させた。

同盟締結の奏上を受けた天皇は「今しばらく独ソの関係を見極めた上で締結しても遅くはないか」と危惧を表明されたが、近衛首相は「ドイツを信頼致して然るべし」と奉答したという。ドイツは現在に至るも反日国家であることを認識して貰いたいものである。第一次大戦で日本軍がドイツの植民地を奪ったことを忘れてはならない。40年9月23日日本軍は北部仏印に進駐し、同年9月27日同床異夢となる日独伊三国同盟を締結した。

39年7月米国によって日米通商航海条約が破棄され無条約時代に入ったが、41年4月日米交渉が開始され、支那からの日本軍撤兵と三国同盟からの脱退が中心問題となった。しかし、日本陸軍はこのチャンスをぶち壊したのである。交渉中の同年4月13日日ソ中立条約を締結した。同年6月22日ヒトラー独ソ不可侵条約を破棄してソ連に攻撃を仕掛け独ソ戦争が開始された。同年7月28日日本軍は南部仏印に進駐し米国を硬化させたのである。世界は腹黒い!ドイツに二度まで騙された陸軍首脳には三国同盟を破棄し支那撤退を主張する真の勇者は皆無であった。


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