2012-09-01から1ヶ月間の記事一覧

戦死52万!

マッカーサー上陸部隊25万は、キンケイド中将の第7艦隊に護られて艦艇総数73 4隻でレイテ島東方に集結。44年(昭和19)10月20日10時上陸を開始し日没までに6万 の兵と戦略物資1万屯を陸揚。マッカーサーは「私は帰ってきた。我が軍は米比両国 民の血で…

レイテ海戦

陸軍がレイテ決戦を決め、第一航空艦隊司令長官大西滝治郎中将がゼロ戦に250K の爆弾を積んで米空母に体当たりする神風特別攻撃隊の編制を命じたのも、主力艦隊 突入による集中攻撃で、一挙に戦局打開を期待したからである。シンガポール南方のリンガ島…

作戦変更―ルソンからレイテへ

小磯内閣成立まもなく参謀本部と軍令部は今後の決戦態勢を確認。敵に一泡ふかせ戦 争終結のチャンスを掴まんとする捷号作戦を立案。44年(昭和19)9月26日第14方面軍 司令官(比島)に第1方面軍司令官山下奉文を、参謀長に近衛第2師団長武藤章を任命。この人…

哀れ日本帝国の情報収集力

41年(昭和16)6月22日独ソ戦争勃発直後から、ルーズベルト米大統領はモスクワに特 使を送り、ソ連を仲間に引き込もうと行動を起こしました。42年11月14日米特使ハーレイ、大統領付幕僚長レイヒイはモスクワでスターリンに会ったが、彼はドイツが敗れ去ったあ…

東条の総辞職

東条は倒閣を策す重臣たちに「総理大臣としていずれも落第した者の集まりではない か」と敵意を露わに表明し、憲兵・特高を使っての監視を強化。東条の改造内閣の動 きは海軍部内に信望の厚い米内光政を国務相として入閣させられるかどうかでした。反東条の…

異例! 梅津美治郎を参謀総長に再上奏した東条

東条英機という軍人が天皇に強烈な印象を与えたのは、38年(昭和13)5月のことでし た。支那事変の拡大派ではなかった近衛首相は政策を変えるため、拡大派の急先鋒杉 山陸相を板垣征四郎とする更迭案を天皇に訴え天皇も同意。天皇と近衛の意思を知った杉山と…

食生活の窮乏

主食の国家管理は七分搗きだった米が42年(昭和17)秋から五分搗きとなり、43年1月 から二分搗きになった。そればかりか押麦・高粱・とうもろこし等の雑穀が混入され、 馬鈴薯・うどん・乾パンが総合配給となり、東京では44年4月から雑炊食堂が開かれ 一般市…

日本の航空機生産

近代戦の主役となった航空機の生産が超重点的に強化されたのはいうまでもない。中 島飛行機・三菱重工業を中心とする民間企業が航空機生産の殆どを占めていたので、 陸海軍は対立に対立を重ねながら、それぞれ企業との非合理な関係を深めていきます。43年(昭…

河村部隊甲副官 田中徳祐大尉の叫び!

田中大尉はサイパンの戦いに参加し奇跡的に生き残り45年(昭和20)12月になって降伏。 この時米軍に投降するのを拒み、昭和陸軍の降伏命令書を要求して47人の兵士と共 に降伏しました。44年6月15日の米軍上陸以来、田中は中隊を率いて執拗に夜襲をかけ先頭…

サイパン陥落

サイパン島はドイツ領であったが第一次世界大戦で日本の統治下となり、日本人が入 植し南洋興発といった企業を起こし、2万5千人の日本人が住んでいました。44年(昭和19)5月2日宮中で天皇臨席のもと陸海軍両統帥部会議が開かれ、参謀総長 東条は「サイパ…

マリアナ沖海戦

マーシャル諸島に続いてマリアナ諸島のサイパン・テニアン・グアムが狙われるのは 必至であった。44年(昭和19)5月3日連合艦隊司令長官に親補された豊田副武大将の 構想は、給油条件の悪化から決戦場を待機地点に近いパラオ付近とし、陸軍の航空部 隊が迎撃…