戦死52万!

マッカーサー上陸部隊25万は、キンケイド中将の第7艦隊に護られて艦艇総数73
4隻でレイテ島東方に集結。44年(昭和19)10月20日10時上陸を開始し日没までに6万
の兵と戦略物資1万屯を陸揚。マッカーサーは「私は帰ってきた。我が軍は米比両国
民の血で清められたこの地に立っている。私の元に団結せよ!」と訴えます。

第14方面軍(司令官山下奉文)が大本営南方軍の強引な命令でレイテ決戦に入った
のは22日である。レイテ湾岸の守備に当っていた第16師団に、米軍は4個師団をぶつけ激戦が始まります。精鋭師団と謳われ、満州から派遣された第1師団はマニラに停泊中だったがレイテに送られます。

ルソン島からレイテ島への補給は、米軍が制海権・制空権を握っているため充分には
できず、将兵達は食糧や弾薬もなくマラリアに脅え、12月15日レイテ作戦は失敗に終
ります。この攻防戦で8万4千人の兵士の内8万人近くが戦死、損耗率95%である。

米軍機動部隊は45年1月9日ルソン島リンガエン湾に集結、その艦艇が一斉に砲門を
開いて上陸地点確保の砲撃を開始。日本軍は夜襲をもって挑むが犠牲を増すばかり。
司令官山下は永久抗戦を唱え玉砕戦法を排し、本土決戦の準備を整える作戦に専念。
7月第14方面軍は食糧、弾薬の尽きる時期を試算した上、9月まで戦い山下と参謀長武藤章は自決、残った兵士はゲリラ戦を戦うと秘かに決定します。

しかし8月15日日本は降伏、山下はバギオで米軍の示した降伏文書に調印。それを知
らない兵士達は山中に潜伏しゲリラ活動を46年春まで続けます。日本軍の将兵、民間
人はフィリピン決戦の名のもとに52万人弱が戦死したのである。

マニラで山下の軍事裁判が行われた折、武藤も証人として戦犯キャンプに収容され、この収容所に収容された戦犯容疑者の将兵に「上級者に命令されたことを否定しろ」と命じます。このため非人道的行為は下級の兵士におしつける結果となり、命令受領者は反論の機会を失い死刑を宣告されたケースが多いのである。


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