レイテ海戦

陸軍がレイテ決戦を決め、第一航空艦隊司令長官大西滝治郎中将がゼロ戦に250K
の爆弾を積んで米空母に体当たりする神風特別攻撃隊の編制を命じたのも、主力艦隊
突入による集中攻撃で、一挙に戦局打開を期待したからである。

シンガポール南方のリンガ島で3ヶ月間夜戦訓練を行ってきた栗田健男中将指揮の第
二艦隊は、捷一号作戦の発動とともに44年(昭和19)10月18日リンガを出港。「25日黎明時タクロバン方面(レイテ湾)に突入せよ」との連合艦隊命令を受けます。

この第二艦隊の第一戦隊には、日本海軍が4年余をかけてつくった排水量69,100屯、46センチ主砲9門をもつ世界最大の戦艦大和・武蔵の雄姿がありました。この二大戦艦は駆逐艦30隻分の重油を必要とし、航空機時代となって活躍の場がありません。敵機の集中攻撃を引受けた武蔵は、目立つように舷側をネズミ色に甲板を黒色に塗替えます。

レイテを目指す栗田艦隊は、パラワン水道で米潜水艦の魚雷攻撃を受け旗艦愛宕と摩
耶の重巡2隻を失い、24日ミンドロ島南端からシブヤン海上で延べ250機の5回にわたる攻撃を受けます。不沈艦武蔵は魚雷20本以上、直撃弾17発以上、至近弾20発以上を受け夕暮のシブヤン海に沈みました。

オトリ部隊である第三艦隊(小沢治三郎中将指揮)の母艦機や基地航空隊はルソン島
東400Kの海上でシャーマン少将の機動部隊を襲撃し、レイテを守備するハルゼー大将指揮の主力空母群を北方に誘い出す作戦に成功します。が小沢艦隊は通信器械が老朽化していてこの朗報を栗田艦隊に伝えられません。

突入予定時刻に遅れながら栗田艦隊は、25日レイテ湾へあと24マイルの地点に達したところで敵襲を避けていったん反転。再びレイテを目指そうとしたが13時13分突入を断念します。命令通り突入していれば大和の46センチ砲でマッカーサーはじめ敵陣を吹き飛ばせたと惜しむ声も伝えられています。

決戦当日、米母艦機1,400に対し日本陸海軍合わせて実動212機であったという事情は致命的であった。制空権のない連合艦隊はこの海戦によって事実上消滅した。


レース結果共鳴チェック