2012-01-01から1年間の記事一覧

新憲法9条・戦争放棄

46年1月4日病床で公職追放令を知った幣原首相の憤怒と懊悩は激しかった。追放の対象となる堀切善次郎内相、前田多門文相、松村謙三農相、次田大三郎書記官長(官房長官)をGHQの指令を実行して、馘首することなど幣原の心情としてできる筈もなく総理を続…

人間宣言と公職追放

46年元旦、天皇の神格を否定する詔書、人間宣言が出されます。これはGHQの命令でもなく、天皇の自発的意志でもなく、占領軍の顧問ヘンダーソン大佐と禅研究の英人ブライスから生まれたといわれる。二人は日本の民主化と平和のためには、日本の超国家主義…

昭和天皇に感動!

45年8月18日の閣議で首相東久邇宮は、全ての政治犯の釈放、言論・集会・結社の自 由の即時実行を指示し、9月29日にマ元帥と会見した時に、共産党員を含む政治犯は 全員釈放すると言います。「危険ではないか?」と疑念を呈したマ元帥に、「過激思想には言…

外相重光葵の奮闘

重光葵は米軍の占領が順調に進んだ世相を描写している。「日本の指導者は官界、民 間を問わずマッカーサー詣でに狂奔し----いずれも占領軍に対する理性を喪いたる媚 態となり、いうに忍びざるものあり----維新当初の状態を想起せしむるもの多し」「所詮日本…

梅津美治郎の刺客

45年9月13日GHQは大本営の閉鎖・廃止を命じ次いで9月15日参謀本部・軍令部・教育総監部の解体を命じ、梅津参謀総長は10月15日解職されます。陸軍省・海軍省は11月30日で解体され、12月1日からは第一復員省(海軍省は第二復員省)と改められ、未だ海外に…

近衛上奏文に対する刺客

45年9月、総司令部の対敵諜報部の分析課長に任命されたカナダ公使館員ハーバート・ ノーマンが来日。ノーマンのボスはG2のソープ准将だが部内では別格扱いでマッカーサー直属となり、日本の政治指導者や政治犯の情報収集を開始します。最初の仕事は10月4…

近衛文麿の死

45年9月13日マッカーサー元帥と初会見した国務相近衛は、9月27日の天皇とマ元帥の初会見が成功裏に終わったのを見届け、10月4日再び元帥を訪問。元帥は「憲法改正に関する提案を天下に公表せらるるならば議会もついてくると思う」と近衛を持ち上げます。…

東条英機の自決失敗

45年(昭和20)8月15日玉音放送が終わった3時間後、鈴木貫太郎首相は総辞職を願い 出ます。終戦処理を乗りきるには臣下では無理と考えた木戸内大臣は、平沼枢相と協 議の上東久邇宮稔彦殿下を言上し天皇の同意を得、東久邇宮は17日組閣。近衛文麿が 副総理格…

正しかった近衛文麿の指摘

ヤルタ会談でスターリンは対日参戦を切札にして、ロシア帝国が失った領土と権益の 奪還を強調したが、結果はソ連の一方的な攻撃でそれ以上のものが略奪されました。満鉄の財産50億円、日本政府が満州国にもっていた資産22億円、満州国政府の資 産10億…

将兵・邦人200万を無事復員させた岡村寧次大将

41年(昭和16)7月北支那方面軍司令官に就任した岡村寧次大将は、「滅共愛民」の理 念から同年11月3日の明治節に「焼くな・犯すな・殺すな」の三戒遵守を訓示し、毎 日将兵に唱えさせます。放火・殺人・強盗が常態化して規律崩壊にあった同軍を43年 頃迄には…

スターリンの遠大な戦略

党や政府だけでなく軍も粛清の対象となりました。革命内戦の英雄トハチェフスキー 陸軍元帥ら軍幹部が、ドイツのゲシュタポが偽造した文書を証拠に逮捕され37年6月 処刑されます。偽造と知りながらスターリンは軍粛清の材料として利用したのである。軍では…

スターリンの大粛清

22年レーニンが脳卒中で倒れた時、スターリンはトロッキーに対抗するため、ペトログラード共産党議長グレゴリー・ジノヴィエフと、モスクワ共産党議長レフ・カーメネフ、二人の古参党員と組みます。23年1月4日レーニンは遺言します。「スターリンは余りに…

レーニンとスターリン

スターリンの暴虐性が余りにも過激であったため、紳士然としたレーニンがまるで良 い政治家に見えてしまうが、レーニンは革命のためには殺人・テロ行為等政府弱体化 には何でも奨励しました。彼は18年強制収容所をつくり、どんな罪を犯したかではな くどんな…

国際法に対する無知・無能

45年(昭和20)8月15日正午、天皇はポツダム宣言を受諾する旨の玉音放送を行った。 しかし関東軍総司令部では大本営から停戦命令あるまでは、作戦の大道を動かすべき ではないという態度をとります。23時停戦命令が入り、総司令官山田乙三・総参謀長 秦彦三郎…

シベリア抑留

45年(昭和20)8月15日午後ワシレフスキー元帥は、カムチャッカ防衛地区司令官グネ チコ少将に千島列島占領の上陸作戦命令を発し、18日から19日にかけて占守島に上陸 、以後千島列島を順次占領していく。南千島のウルップ島及び北方四島が完全占領さ れたのは…

以徳報怨

45年(昭和20)8月11日の新聞には陸相談話として「断乎聖戦を戦い抜かんのみ。たと え草を食み土を噛り野に伏するとも----死中自ら活あると信ず云々」とあった。この記事は陸相・次官・軍務局長も知らないうちに青年将校が新聞社に強要したものでした。12日早…

8月9・10日の梅津参謀総長

陸軍省軍務課竹下正彦中佐が起案した「ソ連参戦に伴う戦争指導大綱」には徹底抗戦 完遂のため国内に戒厳令を布くとあり、参謀次長河辺虎四郎は出勤してきた梅津参謀 総長にそのメモを呈示。ソ連参戦を達成した梅津は「明確なる意志を表示せられざるも別段の…

責任を必死に果した将兵たち

45年(昭和20)8月9日午前1時前、満州東部にある地下要塞、虎頭要塞を防備する第 15国境守備隊1,400名(部隊長西脇武大佐)にソ連軍が侵攻を開始。西脇は8日から 120キロ後方の掖河で開かれる作戦会議参集を命ぜられ任地を留守。砲兵隊長大木正大尉が…

天皇の軍隊・国体護持軍

45年(昭和20)8月10日の関東軍総司令部の満州放棄によって、根こそぎ動員で老人や 婦女子だけとなった居留民や開拓団は満州全土のいたる処で、無防備のまま放りださ れ、その彼等をソ連軍が急追。現地の中国人も仕返しに匪賊の如く襲いはじめます。14日昼近…

関東軍総司令部の早すぎる退却

45年(昭和20)7月1日大本営陸軍部作戦課の瀬島龍三中佐は関東軍参謀に転出。新京 (現在の長春)の関東軍司令部とハルビン近郊の731部隊との間の連絡係で、竹田宮 (宮田参謀)と瀬島参謀の交代人事は、皇族が細菌戦に関与していたことの配慮でした。しかし…

中ソ合意前の対日参戦だった!

45年(昭和20)8月8日モスクワ時間17時、駐ソ大使佐藤尚武はモロトフ外相と面談。和平仲介の回答と信じた佐藤に渡されたのは「ポツダム宣言を拒否した故に、和平仲介を依頼する基礎は失われた」とする宣戦布告でした。日本の和平仲介依頼は、ポツダム宣言の…

非戦闘員への原爆投下

45年(昭和20)7月29日ポツダムでは、モロトフがトルーマンを訪れ「日本がポツダム宣言を拒否していることであり、連合国が正式に対日参戦についてソ連政府に申入れることが最善の方法であるとソ連政府は考える」と言い出します。31日トルーマンは署名のない…

ポツダム会談

広田・マリク会談に見切りをつけた最高戦争指導会議は、45年(昭和20)7月10日直接 にモスクワへ天皇の親書をもった使節団派遣を決定。その全権に近衛文麿を選任。近 衛はソ連不信、ソ連仲介には反対でただ皇室だけは安泰にしたいという気持でした。和平仲介…

マンハッタン(原爆製造)計画

原爆はドイツが造ると大変なことになると、アインシュタイン博士がルーズベルトに 手紙で警告したことがきっかけとなって製造を開始。米国は41年(昭和16)12月の真珠 湾攻撃の頃、50万人・20億ドルを投じて製造に全力を挙げ、原爆製造の目途がつ いたのは…

梅津のソ連対日参戦促進工作 ②

広田弘毅元首相とソ連駐日大使マリクとの会談が45年(昭和20)6月3日から開催。マ リクの要求で東郷外相が具体案を作成。29日マリクはこの案を本国に取次ぐと承諾し たものの、その後広田の再三の会談申入れにマリクは病気を理由に応じません。6月8日御前…

梅津のソ連対日参戦促進工作 ①

45年(昭和20)4月5日ソ連のモロトフ外相は佐藤尚武大使を招致して、日ソ中立条約 破棄に関する覚書を読みあげた。これでこの条約は1年後にその効力を失うことにな り、ソ連が敵となるのなら英米に直接和平を申入れ終戦を早めるべきでした。が----重臣達は…

繆斌(みょうひん)工作

44年(昭和19)8月19日の最高戦争指導会議で決定された、満州国の現状維持以外の殆 ど全てを譲歩するという対重慶和平交渉は、国際情勢からみて実現性の薄いものだっ たが、小磯首相は南京政府考試院副院長である繆斌工作に乗り出します。この工作の路線は一…

ヒトラーの最期

45年(昭和20)の年が明けるや、ソ連軍は厳寒の中、東ヨーロッパに一斉に攻勢をかけ ポーランドでは1月17日にワルシャワを占領し、チェコスロバキアでも東部に進出、 ハンガリーの首都ブダペストも2月13日に占領しドイツの首都ベルリンを目指します。ノルマ…

特攻作戦

人間そのものが爆弾と化する特攻作戦は太平洋戦争の最も悲劇的かつ悲惨であり、こ れを採用した陸海軍の指導部の責任は永久に消えることはない。44年(昭和19)2月か ら3月にかけて、その考えを参謀本部作戦課長服部卓四郎などが強力に主張します。 それは陸…

沖縄県民の死者10万人!

沖縄戦には初めから齟齬がありました。米軍の次の目標が台湾か沖縄か判断がつかず 参謀本部作戦部長の宮崎周一は、天皇の允裁を受けていた第84師団の沖縄派遣を中 止し、愚将作戦課長服部卓四郎は独断で、沖縄守備隊3個師団の内、満州でソ連に備 えていた…