ヒトラーの最期

45年(昭和20)の年が明けるや、ソ連軍は厳寒の中、東ヨーロッパに一斉に攻勢をかけ
ポーランドでは1月17日にワルシャワを占領し、チェコスロバキアでも東部に進出、
ハンガリーの首都ブダペストも2月13日に占領しドイツの首都ベルリンを目指します。

ノルマンディー上陸以来、快進撃を続ける米英仏軍もパリを解放し、独仏国境のマジ
ノ線に迫り、ヒトラーは東西両正面から挟み撃ちにあい風前の灯となります。太平洋
では硫黄島の玉砕が迫っていました。

4月20日ベルリンに対しソ連軍第79狙撃軍団の長距離砲が最初の砲門を開き困難な
市街戦の日々が始まりました。25日ソ連軍第58親衛狙撃師団はエルベ河畔のトルガ
ウで米69歩兵師団と連結。26日ジューコフ元帥はベルリン突入を開始。30日ヒトラ
ーは自殺したが殺戮はまだ何日間続きました。ドイツは5月8日無条件降伏。

ドイツ東部地方に侵入したソ連兵士による歴史的なドイツ民間人への蛮行(殺人、略
奪、強姦など)はドイツに対する復讐心の説明となるが、弁護の理由にはならない。
つまり、それはスターリンを頂点とする上級指揮官の黙認のもとに意図的、組織的な犯行であり、兵士への報酬なのである。

ドイツとの戦争でソ連は最低2,963万人の死傷者を出しました。この他何百万人
もの一般市民が死に、更に何百万ものソ連将兵と一般市民がドイツの拘留収容所・工
場での奴隷労働のために消え、この他何百万人もが肉体と精神に損傷を蒙りました。

終戦までのドイツ軍の死傷者は1,349万人で、(これは39年のドイツ男性人口の46%に達する)このうち1,076万人が東部で戦死するか捕虜になりました。

日清戦争後の1899年(明治32)列強の中国進出に反対した宗教結社義和団が反乱を起し、00年北京の各国公使館が包囲され北清事変に発展、日露を含む8ヶ国が出兵して鎮圧した際のロシア軍の北京市民への筆舌し難い蛮行を見てもそれはロシア軍の持つ伝統と言うべきである。


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