2012-04-01から1ヶ月間の記事一覧

ヒトラーを真似る陸軍次官東条英機

参謀本部は決めたばかりの不拡大方針を捨て、38年(昭和13)4月7日徐州作戦を命令 中国大陸には七〇万の日本軍がいたが対ソ戦用に温存された師団も増派し、5月19日 には徐州を占領します。一週間後の26日近衛首相による内閣改造が実施されます。同年7月11…

近衛の内閣改造

38年(昭和13)3月17日大いに揉めた国家総動員法案が議会を通過します。審議の最中 陸軍省軍務局佐藤賢了中佐のダラダラした説明に政友会の宮脇長吉が野次を飛ばすと 「黙れ!」と一喝、翌日杉山陸相が謝罪します。法案に反対する政友・民政両党本部 を右翼団…

国民政府を対手とせず

盧溝橋事件後マスコミ、世論は政府の強硬姿勢支持、軍部礼賛一色となった。この情 勢下に石橋湛山は「東洋経済新報」で「支那国民を抗日侮日に狂わしめた原因のなか に我国が蒔いた種子も存することを反省すべき」というが少数意見でしかありません。中国に…

トラウトマン仲介

37年(昭和12)7月7日の盧溝橋事件後、日本軍は総攻撃を開始して7月末までに北京 天津など華北一帯を占領。近衛首相が陸相杉山元に命じた不拡大は効を奏しません。近衛は蒋介石との談判策を講じ、宮崎龍介(滔天の息子)を蒋の元に派遣、が神戸で乗 船の寸前…

南京虐殺事件は実在した!

中国の挑発で日本軍は、スターリンの思惑通り戦線をドンドン拡大します。日本政府 内の宣戦布告すべきの声を軍部が反対し、37年(昭和12)9月2日北支事変の呼称を支 那事変と改称。宣戦すると米国の中立法発動で戦時物資の輸入が止まるためでした。中国との…

東条英機の実像

中国との戦闘は上海だけでなく華北でも思惑通りに行きません。北支駐屯軍は内地師 団の到着を待って保定に向かい南下する作戦を立てていたが、それを察知した湯恩伯 が率いる中国中央軍はチャハル省に進入します。日本軍は北進して背後を固めて南進する作戦…

第二次上海事変へ

盧溝橋事件から一か月後の37年(昭和12)8月9日上海で海軍特別陸戦隊中隊長大山勇 夫中尉は、斉藤要蔵一等水兵の運転する自動車で虹橋飛行場付近を視察中、保安隊の 一斉射撃を受けて即死するという事件が発生。日中両軍は即戦闘状態に入ります。15日政府は…

度重なる中国の挑発

37年(昭和12)7月7日の盧溝橋事件の直接原因について林茂はその著書「日本の歴史 ・25巻」で次のように言っております。参謀本部は対ソ戦準備のため、36年5月中国政府の諒解なしに北支駐屯軍を三千名か ら五千名に増員。中国は華北侵略の一環と見做し地主…

挑発しやすく、挑発に乗りやすかった日本陸軍

37年(昭和12)6月4日陸相に杉山元、海相に米内光政を留任させ、元首相広田弘毅を 外相とする近衛内閣が発足します。スターリン主導で結成された抗日民族統一戦線の攻撃目標は、00年(明治33)北清事変 の末、北京議定書で駐兵を認められ、天津に駐屯していた…

スターリンの冷徹な外交

革命後のソ連は、独特のイデオロギーのもと一党独裁の専制体制によって極端な秘密 主義を守ったので、その動向は謎とされた。しかし今となってみるとソ連の行動は単 純明快なものでした。即ち資本主義国同士を争わせ、ソ連が彼等の戦争の犠牲となることを回…

親分なし子分なし「天才石原」の限界

宇垣内閣不成立を受け西園寺は、次期首相候補の第一を枢密院議長平沼騏一郎、第二 を元陸相林銑十郎とします。軍の意向を察知した平沼は辞退。この結果、参謀本部作 戦部長石原莞爾少将の画策通り林が組閣することになります。石原は板垣征四郎を陸相に送り…