親分なし子分なし「天才石原」の限界

宇垣内閣不成立を受け西園寺は、次期首相候補の第一を枢密院議長平沼騏一郎、第二
を元陸相林銑十郎とします。軍の意向を察知した平沼は辞退。この結果、参謀本部
戦部長石原莞爾少将の画策通り林が組閣することになります。

石原は板垣征四郎陸相に送りこもうとし、林はいったん承諾するが結局周囲の意見
を入れて、陸士十三期の中村孝太郎が就任(一週間後病気辞任、十二期で参謀次長の
杉山元が就任)下剋上流行りとはいえ、十六期の板垣では無理な人事だったのである。

37年(昭和12)2月2日林内閣成立当時は政党からの入閣者はなく、林首相が外相と文
相を兼ね、結城豊太郎蔵相が拓務相を、山崎達之助農相が逓信相を、伍堂卓雄商工相
が鉄道相を兼任。閣僚が僅か七人という門出でした。

林は予算成立後、何の名分もなく国会を解散(喰い逃げ解散)します。寺内前陸相がで
きなかった政党懲罰のつもりが逆効果となり、陸軍も林を見放し三ヶ月余で総辞職。

石原の画策が功を奏し、林の退陣後陸軍は首相候補を板垣とします。重臣達もやむな
しという雰囲気でした。しかし西園寺は「そんなことは奏請できない」と色をなして
怒り、近衛文麿を推します。

石原は盧溝橋事件(北支事変)には不拡大方針を唱え関東軍参謀副長に左遷され、参謀
長の東条英機と対立し辞職。41年予備役。東京裁判では病気入院や東条との対立が幸
いし戦犯指定を免れます。酒田市商工会議所特設法廷でのダニガン検事の訊問には「
満州事変は陰謀ではなく自衛権の発動」と主張し一歩も譲りません。49年死去(60歳)

太平洋戦争の発端となった満州事変、その当時関東軍司令官だった本庄繁は東京裁判
の逮捕令を受けて自決、高級参謀だった板垣は絞首刑。朝鮮軍司令官だった林は43年
に死亡し戦犯にならずにすんだ。


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