軍部大臣現役制の威力

37年(昭和12)1月21日国会で「軍部は軍民一致としきりに言うが、それは国民を超え
て国民と離れた政治を軍がやろうとしているのか」と政友会浜田国松が食らい付きま
す。寺内陸相は「軍人を侮辱した言辞があるのは遺憾」と応戦。

浜田は「どこに侮辱があるか。速記録を調べよ。もしあったら僕が腹を切る、なけれ
ば君が割腹せよ」と突っぱね、議場は拍手喝采で大沸騰します。(腹切り問答事件)

軍部侮辱問題処理の臨時閣議で、寺内は議会の解散を主張して猛り狂います。政党・
官僚出身の閣僚は猛反対で、結局業を煮やした寺内が一人辞表を提出します。慌てた
広田首相は内閣を維持すべく後任の陸相を求めるが陸軍はソッポを向いたままです。

軍部大臣現役制を復活させた広田内閣は自分で自分の首を締めた格好で、1月23日総
辞職のやむなきに至ります。後任には25年(大正14)陸相として軍縮を断行し、西園寺
から評価されていた宇垣一成が推挙されます。

37年1月25日午前1時宇垣は急遽参内し組閣の大命を拝受。しかし寺内陸相や参謀本
部作戦部長石原莞爾少将らは宇垣には陸相を出せないと猛反対。組閣を断念した宇垣
は1月29日大命辞退の上奏文を上呈。軍首脳は天皇の意思さえ躊躇なく無視します。

福岡出身の広田は頭山満と親交があり、玄洋社幹部の月成功太郎の次女静子と結婚。
オランダ公使時に息子に会えないことを悲観した母親が拒食死、受験に失敗した広田
の息子が自殺。敗戦後の東京裁判中に妻が服毒自殺。その裁判で一言も弁解しなかっ
た広田本人は絞首刑となります。

徳富蘇峰著「終戦後日記」には「かってマレーの虎と謳われた山下奉文大将は、マニ
ラの軍事裁判で捕虜虐待の罪を問われ、彼の指揮を奉ずるその部下が随意の行動を為
したといい、若くは交通不便の為命令が貫徹しなかったといい、己れ一人は何等責任
はないものの如く主張した」

一切の責任は我に在りといえば彼の最後の華を飾ることが出来たろう。とあります。


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