2012-01-01から1ヶ月間の記事一覧

台湾銀行救済が焦眉の急なのだが---

神戸製鋼・帝国人絹・播磨造船・日本製粉等六十余社を支配する鈴木商店は、大戦中 に大膨張を遂げたが、それは投機的で経営は放漫であり不健全でした。20年(大正9) の大戦バブル崩壊以来、同店の経営は急速に悪化し震災によってさらに打撃を受けま す。26年…

中国内政不干渉を貫いた幣原喜重郎

岩崎弥太郎の娘婿である幣原喜重郎は、24年(大正13)6月11日以来、加藤高明・第1 ・2次若槻礼次郎・浜口雄幸各内閣の外相として協調外交を推進します。幣原外相の対中国不干渉政策は、加藤首相が外相当時に行った対華二一カ条要求が日本外交の行き詰まりをも…

戦間期における卓越した米国外交

22年(大正11)4月独ソ間にラパロ条約が締結されます。このドイツによるソヴィエト 政権の承認は、欧米諸国に大きな衝撃を与えました。(ソ連の成立は同年12月末)独ソ接近を警戒する米国は、24年ドーズ案を発表します。これはドイツの支払い可能 な5年間の賠…

陸軍機密費問題と怪事件

虎の門事件で山本内閣は総辞職し、陸相だった田中義一は後任の陸相をめぐって上原 勇作と決定的な対立となります。田中は三長官会議を開き宇垣一成の推薦を公式に決 め上原に発言の機会を与えません。上原は半年前参謀総長を辞めていたからです。宇垣は、清…

経済界のブダブルパンチとなった大震災

世界の好景気にもかかわらず日本だけが不景気であった大正初期の不況の原因は、日 露戦争で抱え込んだ莫大な外債と、戦後の国力を超えた軍備拡張にありました。しかし世界大戦による需要の増大とアジア市場の独占によって、大戦バブル景気が生 じ重化学工業…

死者十万人・不明四万人超となった関東大震災

23年(大正12)8月24日首相加藤友三郎は、現職のまま大腸ガンで死去します。関東大 震災に帝都が見舞われたのは、第二次山本内閣(山本権兵衛)が組閣中の9月1日のこ とでした。陸相に田中義一、陸軍次官に宇垣一成が就任します。大震災下の戒厳令は国民に知…

更なる国際協調への布石

20年(大正9)1月ウィルソン提案の国際連盟が発足し、日本は四常任理事国の一つと して参加します。日本国民は、これで日本も世界の「一等国」になったと思うように なりました。この日本国民の思い込みは、清朝崩壊後に混乱の時代を迎えた中国に対する侮蔑と…

世界は国際協調へ歩み出すのだが---

19年(大正8)1月18日 パリ講和会議が開催され、米国大統領ウィルソンは十四カ条の 平和原則をもとに理想主義的主張をするのだが、英・仏の現実主義に多くを譲らざる を得ませんでした。例えば民族自決は、ハンガリー、チェコスロヴァキア、ポーランド等の独…