台湾銀行救済が焦眉の急なのだが---

神戸製鋼・帝国人絹・播磨造船・日本製粉等六十余社を支配する鈴木商店は、大戦中
に大膨張を遂げたが、それは投機的で経営は放漫であり不健全でした。20年(大正9)
の大戦バブル崩壊以来、同店の経営は急速に悪化し震災によってさらに打撃を受けま
す。

26年末 鈴木商店の最大の債権者台湾銀行は、同店への無担保貸付を停止します。台
銀は植民地経営の基盤となる銀行として設立された発券銀行なのだが、すでに台銀の                                                                               整理は震災前から問題になっていたのです。

同年国会の施政方針演説を巡る審議途中で、加藤首相は心臓病に倒れそのまま帰らぬ
人となり、加藤の指名で憲政党の総裁となっていた若槻礼次郎内相が新内閣を組閣す
ることになりました。

27年(昭和2)3月24日 北伐軍(共産軍)が日英米の公館を略奪、居留民に暴行を加える
南京事件が勃発します。南京江岸の英米の砲艦は一時間ほど砲撃しますが、日本砲艦
は発砲に加わりません。それはもし日本艦が発砲したら略奪に止まらず生命が危険と
いう居留民の嘆願があったからでした。4月12日蒋介石共産党員を潰滅し18日蒋を
首席とする南京国民政府が成立します。ここに第一次国共合作は破綻しました。

同年3月27日鈴木商店が倒産し、株式相場は暴落します。台湾銀行を救済すべく政府
は日銀に二億円の緊急貸出を求め、議会が閉会中だったことから緊急勅令をもって対
処することとしました。

4月17日この緊急勅令案は天皇臨席の下での枢密院本会議で否決されてしまいます。
否決を受けて若槻内閣は総辞職し、その結果多くの銀行で取付け騒ぎが発生し危機的
状態となりました。

この緊急勅令案を葬り去った立役者は、明治憲法を起草した伊東巳代治で、幣原外相
南京事件に見られる対中不干渉主義を「軟弱外交」という批判からだったのです。

次に八幡和郎著「歴代総理の通信簿」を引用します。
「幣原外交は基本路線は正しいとしても、英米蒋介石から評価され見返りを引出す
努力と能力に欠けていた。当時の国内で軟弱外交と非難されたのも当然である。」


レース結果共鳴チェック