中国内政不干渉を貫いた幣原喜重郎

岩崎弥太郎の娘婿である幣原喜重郎は、24年(大正13)6月11日以来、加藤高明・第1
・2次若槻礼次郎浜口雄幸各内閣の外相として協調外交を推進します。

幣原外相の対中国不干渉政策は、加藤首相が外相当時に行った対華二一カ条要求が日本外交の行き詰まりをもたらしたことへの反省に立ったものでした。

24年に起こった第二次奉直戦争(北方軍閥同志の争い)でも、直隷派が英米の支援を受
けているにも係わらず、日本と関係の深い張作霖(奉天派)の支援要請を、不干渉を盾
に拒絶します。張作霖ソ連の支援を受けていた広東政府との提携を試み、それが中
共産党の影響力が満州に浸透するきっかけになったのです。

この内戦で張作霖が危機的な状況に追い込まれながら、直隷派の有力者馮玉祥の寝返
りによって突然優勢となって事態が打開されますが、実はそれは日本陸軍の出先が機密
費百万円の寝返り資金を流した結果で、政府が全く関知しないところで陸軍が裏工作
を行うという、その後の陸軍暴走の嚆矢となる事件だったのです。

25年8月 中国は関税自主権回復を提議する国際会議開催を提唱します。幣原外相は
率先してその開催を支持し、列国はそれに引きずられた形で賛成します。しかし中国
の内政不安定のため、中国全権団が自然消滅し、成案は中国を除いて非公式案として
署名され採択されるに留まりました。

この結果、上海をはじめ各都市の排日は漸次影をひそめ親日の空気が台頭してきます。
英米側には、対支協調破りの批判さえあった程でした。

松元 崇著 「大恐慌を駆け抜けた男 高橋是清
岡崎久彦著 「幣原喜重郎とその時代」 より引用

驚くことに、やがて日本陸軍は機密費捻出のためアヘンにまで手を染めるのである。                                                                               その「里見機関」について、いずれ触れたいと思っております。

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