日本軍(関東軍)の陰謀で始まった満州事変

浜口雄幸の死後テロで政権交代では悪例となるとして、民政党の総裁若槻礼次郎が31
年(昭和6)4月14日再び組閣します。陸相は三月事件で失脚した宇垣から南次郎に、
外相には幣原喜重郎が、蔵相には井上準之助がそれぞれ留任となりました。

父を爆殺された張学良の排日運動が功を奏し同年5月の国民会議では、旅順・大連の
回収、満鉄回収、関東軍撤退が叫ばれるようになり、さきの満鉄平行線問題は暗礁に
乗り上げてしまいます。

陸軍は八月はじめ、杉山元次官・二宮治重参謀次長・関東軍司令官本庄繁大将らと会
議を開き、昭和十年までに満蒙問題を解決することを決めます。この会議に出席した
永田鉄山軍事課長は、奉天砲撃の準備として二十四センチ榴弾砲二門を密送します。

同年9月18日関東軍奉天郊外柳条湖で満鉄線路を爆破します。これを中国軍隊の仕
業と主張して報復の軍事行動を開始しました。奉天長春占領(19日)吉林占領・朝鮮
軍独断越境(21日)錦州爆撃(10/8)チチハル占領(11/19)ハルビン占領(翌2/5)満州国
生(3/1)と---これは張学良が配下の軍隊に無抵抗方針をとらせていたからである。

同年9月21日ハルビンの日本総領事館等に爆弾が投下されました。この真相は元憲兵
大尉甘粕正彦が高級参謀板垣征四郎の依頼で、戦線拡大のため実行された謀略でした。

満州事変に呼応して参謀本部橋本欣五郎中佐は、同年10月17日若槻首相・幣原外相を
殺害し荒木貞夫が首相という軍部政権樹立クーデタ計画が未然に発覚、秘密裡に処理
されます。政界や宮中を威圧する、そこに真の意図があったのです。それを知らされ
ない国民は、熱烈に軍部を支持するのである。

満州事変の処理をめぐって、安達健蔵内相らは政友会との連立を策し、井上蔵相は金
輸出再禁止という政友会の条件を拒否、閣内不一致のなか若槻は政権を投げ出します。

統帥権を干犯した関東軍首脳は、陸軍刑法に従えば死刑の筈なのだが、次々に出世街
道を驀進するのです。本庄司令官は侍従武官長に、石原莞爾中佐は参謀本部作戦課長
に、越境将軍林銑十郎昭和12年首相に、板垣征四郎昭和13年陸相にそれぞれ栄達します。しかし板垣は東京裁判で絞首刑に処せられました。

半藤一利はその著書「昭和史」で「昭和がダメになったのは、この瞬間だというのが、
私の思いであります。」と言ってます。


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