犬養内閣発足直後に発生した第一次上海事変

政友会総裁田中義一の急死によって、鈴木喜三郎と床次竹次郎が後継を争います。こ
の二人では西園寺の眼鏡に適わないと幹事長森恪が判断し犬養毅が総裁となります。

31年(相和6)12月13日若槻内閣の退陣で、犬養が組閣します。内閣書記官長(現在の官
房長官)に森が、上原元帥の圧力もあり、森と親交の深い荒木貞夫陸相に就任しま
す。蔵相には高橋是清が復活して、金解禁再禁止を断行します。

荒木陸相は、真崎甚三郎を参謀次長に(満州事変以来、参謀総長軍令部長は皇族を
置いた)柳川平助を陸軍次官に、山下奉文を軍事課長に、秦真次を憲兵司令官にして
皇道派が陸軍を制することになりました。

列強の目を満州からそらす目的で、32年1月18日関東軍高級参謀板垣の謀略によって                                                                               日本人僧侶襲撃事件を演出、日本から出兵させ激戦の末上海を占領します(満州事変)                                                                               板垣は初期の方針通り、2月にはハルビンを占領、3月には満州国を成立させます。

同年2月9日前蔵相井上準之助血盟団員小沼正に、3月5日団琢磨は菱沼五郎に射
殺されます。血盟団井上日召を中心とする右翼団体で一人一殺主義の暗殺を企図。

上海事変の停戦協定調印式が天長節の4月29日に上海の虹口公園(現在の魯迅公園)で挙行されました。君が代行進曲が演奏された時、檀上に爆弾二個が投げ込まれます。

上海派遣軍司令官白川義則は爆弾の破片が全身に突き刺さり、5月26日死亡、第三艦
隊司令長官野村吉三郎は左眼を抉られ、上海駐在日本公使重光葵は右脚三分の一が吹き飛ばされました。

上海の大韓民国臨時政府大統領 金九が結成したテロ組織「韓人愛国団」尹奉吉の犯
行でした。三か月前の1月8日桜田門天皇の馬車列に手榴弾を投げたのも、この団                                                                               体の李奉昌だったのです。

上海派遣軍司令官白川義則は、32年3月3日中国軍の撤退によって停戦命令を出しま
した。それでも真崎参謀次長は「勝っている」からと言って追撃命令を出します。こ
の裏には白川の司令官任命の時、国際連盟総会が3月3日に開催されるから、深追い
してはならないという天皇の命令があったのです。

「陸軍のなかにも良識の人、忠義の人がいたんですね。」---半藤一利


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