血盟団事件の延長上にあった五・一五事件

32年(昭和7)1月7日天皇勅語を発します。「柳条湖事件自衛戦争である。チチ
ハル・錦州占領も皇軍の威武を中外に宣揚したものである。---」これは天皇のされ
た一番の大ミスじゃないかと思います。(半藤一利著「昭和史」より)

正月や祭日になると少尉・中尉が千鳥足で泥靴のまま陸相官邸に現れ「荒木はいるか
」と怒鳴りつつ奥に通る。荒木は「若い奴はいいのう」と歓迎するから「荒木閣下」
となる。だから青年将校達は感激する。同じことは真崎参謀次長にもいえました。

この陸軍トップの迎合は、これらの青年将校を預かっている直接の上長、連隊長や大
隊長の統率困難をきたし、軍紀も軍律も乱れるばかりとなっていきます。

孫文を援助した犬養首相は、書記官長の森恪や陸軍に内緒で特使を上海に送り、満州
解決案を伝えます。秘密を知った森が中国からの連絡を握り潰したため進展しません。

満州の完全占領を推進する森は、犬養の外交政策にあきたらず、陸軍はもちろん海軍、
右翼団体、あらゆる方面に触手を伸ばします。そして犬養内閣打倒に動き出すのです。

同年5月15日午後五時半頃、海軍将校四名・陸軍士官候補生五名が、円タクで首相官
邸に乗り付け、犬養首相を射殺しました。他のグループは警視庁や日本銀行等を襲撃
します。(五・一五事件)

事件の被告が公判で述べた農村の疲弊状況は、新聞報道を通じて国民の認識を深めて
減刑嘆願書は、三十五万通に達したといわれます。

判決は、首相を射殺した三上卓中尉は禁錮十五年、陸軍士官候補生十二名は禁錮四年
と軽微だったが、民間人の橘孝三郎無期懲役大川周明禁錮十五年であった。

昭和5年1月頃、井上日召霞ヶ浦航空隊員で革新運動を推進していた藤井斉中尉と
が知り合いとなりやがて、日召が海軍の中心となったことが血盟団事件を起こし、五
・一五事件を起こしたのである。血盟団事件で使われたピストルは藤井の提供だった
のです。その藤井は第一次上海事変で戦死。


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