2012-11-01から1ヶ月間の記事一覧

レーニンとスターリン

スターリンの暴虐性が余りにも過激であったため、紳士然としたレーニンがまるで良 い政治家に見えてしまうが、レーニンは革命のためには殺人・テロ行為等政府弱体化 には何でも奨励しました。彼は18年強制収容所をつくり、どんな罪を犯したかではな くどんな…

国際法に対する無知・無能

45年(昭和20)8月15日正午、天皇はポツダム宣言を受諾する旨の玉音放送を行った。 しかし関東軍総司令部では大本営から停戦命令あるまでは、作戦の大道を動かすべき ではないという態度をとります。23時停戦命令が入り、総司令官山田乙三・総参謀長 秦彦三郎…

シベリア抑留

45年(昭和20)8月15日午後ワシレフスキー元帥は、カムチャッカ防衛地区司令官グネ チコ少将に千島列島占領の上陸作戦命令を発し、18日から19日にかけて占守島に上陸 、以後千島列島を順次占領していく。南千島のウルップ島及び北方四島が完全占領さ れたのは…

以徳報怨

45年(昭和20)8月11日の新聞には陸相談話として「断乎聖戦を戦い抜かんのみ。たと え草を食み土を噛り野に伏するとも----死中自ら活あると信ず云々」とあった。この記事は陸相・次官・軍務局長も知らないうちに青年将校が新聞社に強要したものでした。12日早…

8月9・10日の梅津参謀総長

陸軍省軍務課竹下正彦中佐が起案した「ソ連参戦に伴う戦争指導大綱」には徹底抗戦 完遂のため国内に戒厳令を布くとあり、参謀次長河辺虎四郎は出勤してきた梅津参謀 総長にそのメモを呈示。ソ連参戦を達成した梅津は「明確なる意志を表示せられざるも別段の…

責任を必死に果した将兵たち

45年(昭和20)8月9日午前1時前、満州東部にある地下要塞、虎頭要塞を防備する第 15国境守備隊1,400名(部隊長西脇武大佐)にソ連軍が侵攻を開始。西脇は8日から 120キロ後方の掖河で開かれる作戦会議参集を命ぜられ任地を留守。砲兵隊長大木正大尉が…

天皇の軍隊・国体護持軍

45年(昭和20)8月10日の関東軍総司令部の満州放棄によって、根こそぎ動員で老人や 婦女子だけとなった居留民や開拓団は満州全土のいたる処で、無防備のまま放りださ れ、その彼等をソ連軍が急追。現地の中国人も仕返しに匪賊の如く襲いはじめます。14日昼近…

関東軍総司令部の早すぎる退却

45年(昭和20)7月1日大本営陸軍部作戦課の瀬島龍三中佐は関東軍参謀に転出。新京 (現在の長春)の関東軍司令部とハルビン近郊の731部隊との間の連絡係で、竹田宮 (宮田参謀)と瀬島参謀の交代人事は、皇族が細菌戦に関与していたことの配慮でした。しかし…

中ソ合意前の対日参戦だった!

45年(昭和20)8月8日モスクワ時間17時、駐ソ大使佐藤尚武はモロトフ外相と面談。和平仲介の回答と信じた佐藤に渡されたのは「ポツダム宣言を拒否した故に、和平仲介を依頼する基礎は失われた」とする宣戦布告でした。日本の和平仲介依頼は、ポツダム宣言の…

非戦闘員への原爆投下

45年(昭和20)7月29日ポツダムでは、モロトフがトルーマンを訪れ「日本がポツダム宣言を拒否していることであり、連合国が正式に対日参戦についてソ連政府に申入れることが最善の方法であるとソ連政府は考える」と言い出します。31日トルーマンは署名のない…