以徳報怨

45年(昭和20)8月11日の新聞には陸相談話として「断乎聖戦を戦い抜かんのみ。たと
え草を食み土を噛り野に伏するとも----死中自ら活あると信ず云々」とあった。この記事は陸相・次官・軍務局長も知らないうちに青年将校が新聞社に強要したものでした。

12日早朝海外放送によりバーンズ国務長官名の回答が伝わります。天皇の地位は連合
国司令官の制限の下に置かれるというもので、梅津・豊田両総長は帷幄上奏し、この
条件で和平すれば日本は属国化し、国家の内部崩壊による国体の破壊を招くから反対
である、是非御再考をと懇願。この背景に敗戦を屈辱とする青年将校の動きがあった。

12日午後の閣議、13日午前の最高戦争指導会議、午後の閣議は紛糾に紛糾を重ねます。その裏側で荒尾軍事課長以下5名による軍部政権樹立のクーデター計画が着々と進行。決行日の14日7時頃、予定通り阿南陸相と梅津参謀総長が前後してやってきます。荒尾が兵力の動員について説明し、賛同を求めたところ梅津が「私はこの計画に反対である」と言い阿南も「同感である」と断言。この計画は頓挫したが燻りは残りました。

鈴木首相ら和平派は天皇から御前会議を召集して戴くよう画策し、14日10時50分開催
に漕ぎつけます。天皇は10日の御前会議と同じ聖断を下し、「国民は何も知らないで
いるのだから、私が国民に呼びかけることが良ければマイクの前に立つ」と述べます。

14日午後の閣議で戦争に関わるあらゆる資料や書類の焼却を決定。14日夕方から15日
の終日霞が関・永田町一帯では書類焼却の煙が昇り続けたのである。陸軍・海軍では
それが徹底していて各地の総軍・方面軍に焼却命令が示達され、そこから連隊・大隊
・中隊に下達されました。歴史的視点に欠ける、国家による隠蔽が行われたのです。

玉音放送は15日正午と決まり天皇の執務室で23時20分頃より吹き込みが行われました。しかし軍務課畑中中佐、近衛師団古賀参謀を中心とするクーデター未遂事件(玉音放送の録音盤奪取事件)が発生し近衛師団長森赳中将・白石参謀が殺害されました。クーデターの最中、阿南陸相は「一死以て大罪を謝し奉る」の遺書を残し官邸で割腹自殺を遂げました。

15日11時蒋介石は「以徳報怨=徳を以って怨みに報いる」という有名なラジオ演説を
行いました。「暴行をもって暴行に報い、侮辱をもって彼等の誤った優越感に応える
ならば憎しみが憎しみに報いあうことになり、争いは永遠にとどまるところがない--」

これを聞いた日本人は「やはり日本人は中国人にはかなわない」との思いを強くした
という。


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