8月9・10日の梅津参謀総長

陸軍省軍務課竹下正彦中佐が起案した「ソ連参戦に伴う戦争指導大綱」には徹底抗戦
完遂のため国内に戒厳令を布くとあり、参謀次長河辺虎四郎は出勤してきた梅津参謀
総長にそのメモを呈示。ソ連参戦を達成した梅津は「明確なる意志を表示せられざるも別段の不同意を表明せらるるにも非ず」と曖昧な態度に終始します(河辺日記)

原爆投下の任務をもったB29ボックス・カーは主目標の小倉が雲で覆われていたた
め投下を断念し長崎に転進。11時2分第二の原爆は長崎の市民7万5千人を地上から
消去りました。

宮城内ではこの悲劇を知ることなく同時刻最高戦争指導会議が開かれ、東郷外相は国
体護持の条件を付してポツダム宣言を受諾することを主張し、米内海相がそれに賛意
を表したが、阿南陸相は国体護持のほかに三条件を付加すべきと主張し梅津・豊田両
総長も阿南に賛同して譲らず、首相・外相・海相三者との同数対立となりました。

14時半より閣議が開かれ休憩を挟んで18時半より再開されたが双方譲らず、22時すぎ
鈴木首相は参内上奏のため閣議の休憩を宣します。閣議で結論を出さずに上奏、聖断
を仰ぐ方針は首相・外相及びその側近達の当初からの計画でした。

23時50分宮中のご文庫付属の地下防空壕で御前会議が開かれ、梅津は「陸相と同様の
所見を有す。本土決戦に対しては準備出来て居る」と発言。首相は聖断を仰ぐべく天皇の前に進み出る時、陸相は阻止せんと総理と声をかけたがそれ以上何も言いません。

天皇は「外務大臣の意見に同意である」「理由を申しておく。----今日となっては一人でも多くの国民に生き残ってもらって、将来再び立上ってもらう他にこの日本を子孫に伝える方法はないと思う----自分のことはどうなっても構わない。耐え難いことではあるが、この戦争をやめる決心をしたのである」参列者のある者は声に出し、ある者は声を殺して泣いた。時に8月10日2時30分。

10日9時陸相は各課の高級部員を集め「厳粛な軍紀のもと一糸紊れず団結せよ。和するも戦うも連合国の回答如何による」と訴えます。梅津総長をめぐる参謀本部内は聖断を前にしての動きらしい動きを殆ど見せていない。関東軍に示達した命令を再考し変更する気力もなかったのであろうか?


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