2012-10-01から1ヶ月間の記事一覧

ポツダム会談

広田・マリク会談に見切りをつけた最高戦争指導会議は、45年(昭和20)7月10日直接 にモスクワへ天皇の親書をもった使節団派遣を決定。その全権に近衛文麿を選任。近 衛はソ連不信、ソ連仲介には反対でただ皇室だけは安泰にしたいという気持でした。和平仲介…

マンハッタン(原爆製造)計画

原爆はドイツが造ると大変なことになると、アインシュタイン博士がルーズベルトに 手紙で警告したことがきっかけとなって製造を開始。米国は41年(昭和16)12月の真珠 湾攻撃の頃、50万人・20億ドルを投じて製造に全力を挙げ、原爆製造の目途がつ いたのは…

梅津のソ連対日参戦促進工作 ②

広田弘毅元首相とソ連駐日大使マリクとの会談が45年(昭和20)6月3日から開催。マ リクの要求で東郷外相が具体案を作成。29日マリクはこの案を本国に取次ぐと承諾し たものの、その後広田の再三の会談申入れにマリクは病気を理由に応じません。6月8日御前…

梅津のソ連対日参戦促進工作 ①

45年(昭和20)4月5日ソ連のモロトフ外相は佐藤尚武大使を招致して、日ソ中立条約 破棄に関する覚書を読みあげた。これでこの条約は1年後にその効力を失うことにな り、ソ連が敵となるのなら英米に直接和平を申入れ終戦を早めるべきでした。が----重臣達は…

繆斌(みょうひん)工作

44年(昭和19)8月19日の最高戦争指導会議で決定された、満州国の現状維持以外の殆 ど全てを譲歩するという対重慶和平交渉は、国際情勢からみて実現性の薄いものだっ たが、小磯首相は南京政府考試院副院長である繆斌工作に乗り出します。この工作の路線は一…

ヒトラーの最期

45年(昭和20)の年が明けるや、ソ連軍は厳寒の中、東ヨーロッパに一斉に攻勢をかけ ポーランドでは1月17日にワルシャワを占領し、チェコスロバキアでも東部に進出、 ハンガリーの首都ブダペストも2月13日に占領しドイツの首都ベルリンを目指します。ノルマ…

特攻作戦

人間そのものが爆弾と化する特攻作戦は太平洋戦争の最も悲劇的かつ悲惨であり、こ れを採用した陸海軍の指導部の責任は永久に消えることはない。44年(昭和19)2月か ら3月にかけて、その考えを参謀本部作戦課長服部卓四郎などが強力に主張します。 それは陸…

沖縄県民の死者10万人!

沖縄戦には初めから齟齬がありました。米軍の次の目標が台湾か沖縄か判断がつかず 参謀本部作戦部長の宮崎周一は、天皇の允裁を受けていた第84師団の沖縄派遣を中 止し、愚将作戦課長服部卓四郎は独断で、沖縄守備隊3個師団の内、満州でソ連に備 えていた…

空襲―無差別殺戮

米軍が必要としたのは、日本本土を直接爆撃できる空軍基地を入手することでした。 ソ連が厭戦からドイツとの講和を考える以前に沿海州のソ連空軍基地を利用すること で、42年(昭和17)12月30日ルーズベルトはこの旨の親書をスターリンに送付します。 しかし、…

智将栗林中将の戦術

サイパン占領後、米軍は日本本土の戦略爆撃が可能となったが、2,500Kの距離では燃料切れを防ぐために爆弾の積載量が制限され、護衛戦闘機もつけられないので損耗が大きかった。硫黄島防衛司令官栗林忠道中将は米軍の次の目標は硫黄島と判断。硫黄島は洞…

共産主義を否定しない木戸内大臣

大島浩駐独大使は、リッペントロップ外相からヤルタ会談でソ連が対日参戦を決めた と知らされ、2回にわたり外務省に伝えます。しかし45年(昭和20)2月23日ストックホルム岡本季正公使は重光葵外相宛にソ連が対日参戦を決めた情報は誤りと伝えます。3月の時…

支那事変を仕掛けたスターリンが日本を侵略国と・・・

44年(昭和19)11月7日の革命記念日にスターリンは「日本はドイツと共に侵略国なり」とする演説が短波放送によって日本に伝えられ大きな衝撃を与えます。12月末から45年2月にかけて参謀次長秦彦三郎中将の命でクーリエとして参謀瀬島龍三中佐は瀬越良三と名…