沖縄県民の死者10万人!

沖縄戦には初めから齟齬がありました。米軍の次の目標が台湾か沖縄か判断がつかず
参謀本部作戦部長の宮崎周一は、天皇の允裁を受けていた第84師団の沖縄派遣を中
止し、愚将作戦課長服部卓四郎は独断で、沖縄守備隊3個師団の内、満州ソ連に備
えていた精鋭部隊第9師団を台湾へ派遣。これにより沖縄の守備力は大後退します。

日本の守備兵力は牛島満中将の第32軍7万と海軍8千であり、応召した現地出身の
兵は3万5千と推定され、中学生以上は男子は鉄血勤皇隊、女子は従軍看護婦となり
戦闘を支援。牛島はゲリラ的に戦い持久戦を行うことに決めていました。

米軍の沖縄攻撃は45年(昭和20)3月18日〜20日の九州沖航空戦と那覇の空襲で始まり
4月1日イギリス機動部隊を含む1,457隻、母艦機1,727、上陸部隊18万3千の大部隊が水陸両用舟艇で嘉手納に上陸。この間日本軍の砲撃は一切ありません。
米軍は上陸するや洞窟入口に火焔放射攻撃や戦車による踏み潰し作戦にでます。

カミカゼと英語に残る敵艦体当り攻撃は延べ2,571機が出撃し、撃沈艦船36隻、損傷368隻、死傷者4,907人の戦果でした。米軍将兵は四六時中突入してくる特攻機のため神経衰弱となり、このままでは戦闘を続けられないという弱音も出たという。

軍艦を温存しては国民に申し訳ないと連合艦隊中堅参謀は上官の反対を押切って、第
二艦隊(伊藤整一中将)を4月6日徳山から燃料片道分を積んで出発させます。旗艦大
和は徳之島沖で、敵機250機の集中的な魚雷爆撃を受けて3千の兵と共に沈められ
ました。こうなると軍事的合理性のカケラも無い自殺行為というべきである。

県北に逃れた人達は良かったが、南部に逃げた人々から多くの犠牲者が出ます。洞窟
の中に兵士と住民が雑居状態になり、泣きわめく幼児を殺害したり負傷者を毒薬で措
置するといった残酷な光景が見られ人間性の崩壊という現象が戦場の悲劇を生み、究
極には昭和陸軍が真に国民を守る軍隊だったのかという厳しい問を突き付けました。

戦いは6月23日早朝、司令官牛島や長勇参謀長らの自刃で終焉。将兵の戦死は約11
万、県民10万人も犠牲になりました。この間米軍の本土空襲は激化したが、本土上
陸を慎重にさせることとなりました。


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