特攻作戦

人間そのものが爆弾と化する特攻作戦は太平洋戦争の最も悲劇的かつ悲惨であり、こ
れを採用した陸海軍の指導部の責任は永久に消えることはない。44年(昭和19)2月か
ら3月にかけて、その考えを参謀本部作戦課長服部卓四郎などが強力に主張します。
それは陸軍には爆薬を抱いて戦車に体当たりする例が数多くあったからでした。

サイパン失陥直後の6月25日天皇は元帥会議開催を要請し、「なんとか取り戻せない
か」とご下問されますが、もはや駄目だという結論が出た時、前軍令部総長伏見宮
「陸海軍とも何か特殊兵器を考え、これを用いて戦争しなければならない」と発言。
それならばと陸海軍は特攻作戦を現実的に計画し始めます。

陸軍は天皇の名において行う作戦とはしたくないために、第一線指揮官が独自に行う
部隊編成という形を採ることですすめられました。陸軍内部の自発的に出来上がった
私設集団という形こそ、タテマエに拘る日本陸軍官僚一流の姑息な手段に過ぎなかっ
たのである。

加えて表向き特攻作戦のパイロットは志願という形を採っているといわれるが、実際
は志願しない者は卑怯者扱いされる空気が醸成されていたのです。

また特攻パイロットには学徒出陣組が意図的に徴用されました。普通なら200時間
以上の操縦訓練が必要といわれるが僅か17時間で、しかも離陸と着陸だけの訓練で
した。訓練に要するガソリンさえ無駄と考えていました。

海軍初の特攻作戦は44年10月25日レイテ決戦を側面から支えるフィリピン沖海戦で、
ダバオ基地から発進させました。陸軍特攻機が初めて出撃したのは11月7日のことで
第4航空軍(司令官富永恭次)の富嶽隊がマニラ東のラモン湾方面に出撃し散華、この
日以後連日のように出撃を続けます。

学徒出陣で慶大を休学し、22歳で嘉手納湾の米機動部隊に突入戦死した上原良司の
所感に「こういう作戦を行う国家が戦争に勝つとは思えない。どんな理由があるにしろ自由を抑圧する政治組織など永続するわけはない。----」とあります。


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