2012-03-01から1ヶ月間の記事一覧

軍部大臣現役制の威力

37年(昭和12)1月21日国会で「軍部は軍民一致としきりに言うが、それは国民を超え て国民と離れた政治を軍がやろうとしているのか」と政友会浜田国松が食らい付きま す。寺内陸相は「軍人を侮辱した言辞があるのは遺憾」と応戦。浜田は「どこに侮辱があるか…

悲劇の人「広田弘毅」

天皇の激怒によって終息した二・二六事件に対する陸軍の反省は皆無でした。陸軍は これを逆手にとって二・二六は政・財界の罪だとし、その改革を迫る態度に出ます。岡田内閣の総辞職を受け西園寺は近衛文麿を推薦したが病気を理由に辞退。西園寺は 近衛と吉…

侵略国家の再台頭とスペイン内戦

22年(大正11)以来ソ連の共産党書記長に就任したスターリンは、社会主義社会建設を 唱えながら自らの権力集中に没頭。33年(昭和8)からスタートした第二次五ヵ年計画 で軍事部門に重点をおき工業国化をほぼ達成、スターリン独裁を確立します。スターリンの反対…

米国を仮想敵国から真性敵国とした日本海軍

陸軍主導による満州事変の取りあえずの成功が、海軍に陸軍との対抗上深刻な危機感 と焦燥感を与えます。32年(昭和7)1月18日に第一次上海事変が起きると海軍中央は、上海市街に陸戦隊を 上陸させ第十九路軍との間で激戦が開始され、劣勢を挽回できず陸軍の応…

日本全土を震撼させた二・二六事件

35年(昭和10)12月過激な青年将校が属する第一師団に満州派遣が発表されます。永田鉄山を斬殺した相沢三郎を裁く軍法会議は36年1月8日から開かれ、皇道派の満 井佐吉中佐が弁護人となり、裁判の引延しと統制派の攻撃が盛んに行われます。2月 17日前陸相林…

二・二六事件へのプロセス

34年(昭和9)1月23日斉藤内閣の陸相荒木貞夫が病気により、陸相に教育総監林銑十 郎が、教育総監に軍事参議官だった真崎甚三郎が就任。林陸相はその2ヶ月後、荒木 ・真崎の横槍を押切って、軍務局長に統制派のボス永田鉄山少将を据えます。斉藤内閣瓦解後、…

斉藤内閣は平沼騏一郎の陰謀で倒された。

国際連盟脱退の直前、33年(昭和8)2月真崎参謀次長は熱河作戦を開始。本庄繁は4 月侍従武官長に着任し、天皇の停戦命令を円滑に伝えないため、万里の長城を突破。 共産軍掃討で多忙な蒋介石は5月31日塘沽停戦協定締結。6月19日真崎罷免。(スタ ーリンなら…

国際連盟脱退

斉藤内閣の内田康哉外相は32年(昭和7)8月の議会で、森恪の質問に答えて満州国承 認の方針を述べ「挙国一致、国を焦土にしてもこの主張を通す」と見えを切ります。 これが不戦条約会議の全権だった内田の発言で、13年後の日本の焦土を見ずに36年死 亡。内閣…

陸軍皇道派の盛衰

犬養毅首相の死後、政友会では内相鈴木喜三郎を後継総裁に決定し、大命降下を待ち ます。軍部と結託した森恪は、平沼騏一郎の首班を構想して各方面に働きかけます。海軍では五・一五の責任をとって大臣・次官・軍務局長を交替させます。辞職する気 のない陸…