斉藤内閣は平沼騏一郎の陰謀で倒された。

国際連盟脱退の直前、33年(昭和8)2月真崎参謀次長は熱河作戦を開始。本庄繁は4
月侍従武官長に着任し、天皇の停戦命令を円滑に伝えないため、万里の長城を突破。
共産軍掃討で多忙な蒋介石は5月31日塘沽停戦協定締結。6月19日真崎罷免。(スタ
ーリンなら、真崎を2月の時点で銃殺刑に処したでしょうネ)

軍部の政策に批判的な思想、自由主義・平和主義・国際主義までもがアカとされ弾圧
されます。軍部に盲従する文相鳩山一郎は、同年4月京大教授滝川幸辰の罷免を要求
し、大学自治の慣行を蹂躙します。(滝川事件)

同年6月17日大阪市天神橋交差点を中村政一一等兵が信号無視で渡ったところ戸田忠
夫巡査が制止します。派出所に連行された中村は「軍人は警察の命令に従わない」と
戸田を殴り乱闘双方負傷。これが荒木陸相山本達雄内相との対立にまで発展します。

10月23日の陸軍大演習で天皇から「大阪の事件はどうなっているか」と尋ねられ荒木
陸相は震え上がり「ゴーストップ事件」はやっと解決します。軍部に対する組織的抵
抗はこれが最後となりました。

34年1月16日時事新報社(社長武藤山治)は、「番町会」の罪悪を暴露します。その一
部に帝国人絹の株式払下げ問題がありました。(帝人事件)

同年5月枢密院議長倉富雄三郎が辞任します。後任は一木喜徳郎(前宮相)が就任。副
議長の平沼騏一郎は大いに斉藤首相に含み、政友会久原房之助と組み倒閣に動きます。

時事新報の記事で動き出した検事局は、5月大蔵次官黒田英雄・銀行局長大久保偵次
らを収賄容疑で拘引。商工相中島久万吉も召喚され、鉄道相三土忠造偽証罪に問わ
れ、同年7月3日斉藤内閣は黒田次官の起訴確定後総辞職を決意します。

長期に渡ったこの裁判の判決は、37年(昭和12)10月犯罪事実がないとして全員無罪と
なります。平沼は自身が主催する右翼団体国本社の一員で、検察の塩野季彦(第一次
近衛内閣の法相)を使ってこの事件をデッチあげさせたといわれています。
以上大内力著「日本の歴史」第24巻より

司法部内には、平沼閥、政友会鈴木喜三郎閥なるものが確乎として培われ、これは戦
前、いや戦後まで司法部内に影響を残している。松本清張著「昭和史発掘」


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