国際連盟脱退

斉藤内閣の内田康哉外相は32年(昭和7)8月の議会で、森恪の質問に答えて満州国
認の方針を述べ「挙国一致、国を焦土にしてもこの主張を通す」と見えを切ります。
これが不戦条約会議の全権だった内田の発言で、13年後の日本の焦土を見ずに36年死
亡。内閣は英米の反対を無視し、9月15日日満議定書によって満州国を承認します。

同年9月30日日中両国にリットン報告書が送られます。満州における反日侮日のため
法的に正当な権益が脅かされたことに対する自衛であるという主張も、満州国も認め
られません。

国際連盟は12月2日満州問題の審議を再開、この時の日本代表は松岡洋右でした。日
本は一切の妥協に応じない態度をとり、閣議は33年2月20日脱退の方針を決定、24日
の連盟総会で委員会案が四十二対一で採択されると、直ちに松岡らは退場します。

35年ドイツが、37年イタリアが連盟を脱退するが日本は、世界平和に大きなヒビをい
れた元兇であると同時に、日本の国際的地位を悪くし日本を孤立化させた。この時以
後、日本は世界で最も侵略的で横車をおす無頼漢として鼻つまみにされたのである。
大内力著「日本の歴史」第24巻より

この国際連盟を脱退したのも森恪の推進で、陸軍の鈴木貞一、外務省の白鳥敏夫とと
もに謀ったことだった。松本清張著「昭和史発掘」より---森は32年12月50歳で急死


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