斉藤内閣の内田康哉外相は32年(昭和7)8月の議会で、森恪の質問に答えて満州国承 認の方針を述べ「挙国一致、国を焦土にしてもこの主張を通す」と見えを切ります。 これが不戦条約会議の全権だった内田の発言で、13年後の日本の焦土を見ずに36年死 亡。内閣…
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