2012-05-01から1ヶ月間の記事一覧

中国共産軍(八路軍)のゲリラ戦法

日本陸軍が中国大陸で「点と線」を占領したところで周りは総て敵である。広大にな った占領地の治安確保に掃蕩作戦を繰返さねばなりませんでした。しかし共産軍は徹底した逃げの戦術をとります。第十八集団軍総司令官朱徳が発案し た三原則は「敵進我退」「…

陸軍大臣は畑俊六か梅津美治郎にせよ !

39年(昭和14)4月政友会は軍部協力を推進する中島知久平らの革新派と、政党を守ろ うとする鳩山一郎らの正統派とに分裂。革新派が軍部接近を始めると、対抗上正統派 も親軍推進者久原房之助が総裁となり、久原派と鳩山派の対立が激化します。三国同盟問題で…

ドイツ・ソ連がポーランドを挟撃=第二次世界大戦へ

39年(昭和14)3月31日英首相チェンバレンは下院で演説します。「何らかの行動がポ ーランドの独立を脅かした場合、我国はポーランド政府にあらゆる支持を与える」仏 政府もヒトラーがポーランドに手を出せばフランスは起つと宣言します。極秘裏に交渉を進め…

とどまるを知らないヒトラー

33年(昭和8)10月ヒトラーは国際連盟で、軍備平等権を主張。否定されて脱退宣言。 しかし陸軍兵力10万という制限無視の再軍備はこの年から秘かに行われていました。34年8月大統領ヒンデンブルクの死で、大統領制を廃してヒトラーが総統(大統領・ 首相・党首…

欧州の天地は複雑怪奇

平沼内閣成立直後、ドイツは日本とイタリアに三国同盟案を提案。有田外相はソ連よ り英仏を仮想敵国とするこの案に反対。陸軍はソ連も英仏も対象とする意向でした。 大島浩駐独大使・白鳥敏夫駐伊大使は日本政府の訓令を無視、陸軍側の意向を伝える のです。…

日米通商航海条約廃棄

重慶から脱出した汪兆銘の呼掛けに応ずる筈の「反蒋起義」が不発に終り支那事変の 長期化は動かし難く、蒋政権の輸入ルート封鎖が作戦の中心となります。これは当然 英仏との対立を深めました。39年(昭和14)4月天津の英租界内で親日派の中国要人が抗日分子…

北進だった陸軍はノモンハン事件で南進に!

39年(昭和14)1月4日近衛内閣総辞職、枢密院議長平沼騏一郎が組閣。板垣陸相・米 内海相・有田外相らは留任。近衛は枢密院議長兼無任所大臣として入閣します。中国戦線で泥沼に嵌った日本軍を徹底的に叩きその北進を阻止したいスターリンは同 年5月11日戦…

余りにも脆弱な日本の国力

盧溝橋事件が勃発した37年(昭和12)の軍事費支出は32億円(全歳出の29.2%)でした が38年には59億円(33.3%)39年は64億円(52.9%)40年は79億円(50.9%)と急増。歳入不足を政府は赤字公債で賄います。市中金融機関に引受けさせるが限度があり、 止むを…

内容が異なる二つの外相名電文

34年(昭和9)ドイツ大使館付武官に任命された大島浩は、36年11月日独防共協定締結 の主務者としてヒトラーの信任を獲得。ミュンヘン財閥と繋がるナチスの外交官リッ ベントロップの提案で37年11月イタリアも参加します。外相となったリッベントロップは、38年…

二つの和平工作

38年(昭和13)2月頃から参謀本部謀略課長影佐禎昭大佐らが極秘裏に、国民党副総裁 汪兆銘担ぎ出し工作に動き出し6月陸軍省軍務課長に転じてからも工作を続行します。近衛首相は同年5月26日外相を宇垣一成とし和平工作を一任。宇垣は国民政府行政院 長孔祥…