日米通商航海条約廃棄

重慶から脱出した汪兆銘の呼掛けに応ずる筈の「反蒋起義」が不発に終り支那事変の
長期化は動かし難く、蒋政権の輸入ルート封鎖が作戦の中心となります。これは当然
英仏との対立を深めました。

39年(昭和14)4月天津の英租界内で親日派の中国要人が抗日分子に暗殺され、北支那
方面軍の犯人四人の引渡し要求を英側が拒否。6月参謀長山下奉文中将、同副長武藤
章少将はその報復として租界の出入口を封鎖します。慌てた英側が犯人を引渡しても
いいと封鎖中止を要請。日本軍はこれを撥ねつけます。

七ヵ所の検問所では日本兵が特に英国人通行者には屈辱的な身体検査を行い、時には
民衆の面前で裸にしたりしたが、米人には決して手を触れようとしません。が米国の
反日感情はこれで一気に燃え上がり、ハル国務長官は駐米日本大使に厳重抗議。

日本国内では一部の新聞が英国を攻撃する記事を掲げ、日比谷公会堂で排英国民大会が開かれ、デモ隊が英国大使館を取巻きます。この運動の中心は右翼団体であるが、背後で陸軍がこれらを扇動し運動資金を流していたのです。

6月15日参謀総長閑院宮・板垣陸相天皇に拝謁。検問を強化し日本に有利な経済政
策を要求までして解決は困難。速やかに封鎖を解き兵を引揚げよと指示します。現地
では総長・陸相を蚊帳の外に置き、封鎖解除の条件を勝手に吊上げていたのです。

有田外相=クレーギー駐日英大使の正式交渉は7月17日から始まり、英国の譲歩を強
いた一般原則の協定が22日成立します。

7月27日米国のハルは日米通商航海条約廃棄を表明します。「わが行動は中国、英国
その他を激励し、日独伊を失望させるであろう」米国は威嚇されぬぞと言ったのです。

日本陸軍は、まさにブレーキを持たないダンプカーなのである。始末の悪いことに、
その運転者も全く遠目のきかない、ド近眼なのだ!


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