2013-04-01から1ヶ月間の記事一覧

ロッキード事件

田中内閣崩壊後、本来なら前回の総裁選で田中と争った福田赳夫、大平正芳らを軸とする争いとなる筈だったが中曽根康弘や三木武夫も意欲を見せており、選挙になればカネやポストの約束が乱れ飛ぶ金権選挙となることは目に見えていた。そこで有力候補四人が椎…

米国の報復

下り坂の田中角栄首相は74年7月7日の参院選挙に勝利して退勢を挽回しようとタレント候補を多数立て、200億円といわれる資金にものをいわせた金権選挙に走った。候補者には大企業の応援を割当て、資金・運動員を提供させ下請け孫請け、関連企業も含めて…

狂乱物価

田中角栄首相は72年11月13日衆院を解散。この頃通貨危機に対する佐藤内閣末期以来の金融緩和と田中内閣になってからの積極的な経済政策によって国内資金は過剰となり、それが列島改造論による土地投機の過熱をもたらし地価や物価は値上がりを始めていた。12…

日中国交回復

旧佐藤栄作派の中には戦後処理に当って「怨みに報いるに徳をもってす」と言って日本軍を虐待せず早期帰国に尽力した台湾の蒋介石総統の恩義を忘れるなという台湾派が多かった。(これが後の青嵐会結成へと動く)しかし、総裁選で田中角栄が勝つためには弱小派…

角福戦争

佐藤栄作首相は70年10月29日の党大会で、投票の4分の3近い353票を得て四選を果たした。田中角栄は自己の多数派工作の準備の時間を稼ぐために佐藤四選に全力を挙げた。71年6月の参院選のあと、参院自民党を牛耳っていた重宗雄三が、野党と組んだ自民党…

ニクソン・ショック

佐藤内閣と自民党は70年11月24日から開いた臨時国会で、公害対策基本法改正をはじめ14の公害関係法の立法を果した。しかし流石の佐藤政権もこの頃は落日を迎えていた。日米繊維問題である。日本の繊維輸出に押しまくられた米国が輸出規制を求めた問題で、6…

沖縄返還

沖縄返還は佐藤栄作首相の強い意志で実現したものでなく、米国の極東軍事戦略が変り、沖縄は日本に統治させ軍事機能だけを維持した方が米国にとって都合が良くなってきたからである。佐藤は日本側の要求が核抜きになるか核付きで良いとするか白紙だと言い続…

公害と黒い霧事件

佐藤栄作が政権を握っていた60年代後半、様々な公害が深刻な問題になった。奇病とされた水俣病が、新日本窒素水俣工場のアセトアルデヒト製造工程で排出される有機水銀が魚介を介して人体に入って起ることが59年熊本大学医学部などの医師によって明かにさ…

日韓基本条約

経済力の向上を背景に池田首相は外交面でも活発に動いた。長年の懸案であった対米債務のガリオア(占領地域救済政府資金)・エロア(同経済復興資金)の返済交渉は61年6月10日債務18億ドルのうち4億9千万ドルを年利2.5%15年年賦で妥結。64年4月1日国…

河野邸焼打ち事件

池田内閣の所得倍増政策で浮足立っていた63年7月15日憂国同志会を主宰する野村秋介(28歳)は、同会員松野卓夫と共に河野一郎建設相の新築まもない私邸に拳銃をもって押入り秘書や家人を安全な場所に追いやり、ガソリンを散布して放火、全焼させた。河野の利…