日中国交回復

佐藤栄作派の中には戦後処理に当って「怨みに報いるに徳をもってす」と言って日本軍を虐待せず早期帰国に尽力した台湾の蒋介石総統の恩義を忘れるなという台湾派が多かった。(これが後の青嵐会結成へと動く)しかし、総裁選で田中角栄が勝つためには弱小派閥三木武夫中曽根康弘両派の協力が不可欠だった。両派は協力の条件として日中国交回復を政権公約に入れることを要求。

田中内閣は72年7月7日に成立したが、その日大平正芳外相は日中正常化した時には日本・台湾間の条約は破棄されるであろうという発言で復交への意欲を示し、周恩来首相は9日田中内閣の姿勢を歓迎すると表明。公明党委員長竹入義勝が27日から訪中し、周首相との間で正常化の準備をする。これによって2月の米国のニクソン訪中という成果は霞んでしまい、常にバカにしていた日本人にしてやられたキッシンジャーは「あらゆる裏切り者のなかでもジャップが最悪だ」と怒りを爆発させた。

キッシンジャーは8月の日米首脳ハワイ会談の直前に来日し田中との会談を要請したが田中は断ります。キッシンジャーは田中の軽井沢の別荘に押しかけ面会となり「日中国交正常化を延期して欲しい」と頼んだが田中はこれを一蹴。日米首脳ハワイ会談後、記者がニクソンは激しかったですかと聞くと田中は「当然だ」と返事したという。米国は74年10月の田中降ろし76年2月のロッキード事件と田中への報復を開始する。

72年9月29日北京の人民大会堂で共同声明調印。戦争状態終結と日中の国交回復を表明したほか日本は中華人民共和国を唯一の正統政府と承認し、台湾がこれに帰属することを実質的に認め、中国は賠償請求を放棄。この賠償放棄が曲者であった。

日本政府は中国に対しODA(政府開発援助)を通して79年から04年までに3兆3千億円、民間援助を合わせると総計6兆円超の援助を供与。さらに日本からの援助を受けながら中国は毎年600億円の援助をベトナムカンボジアアフガニスタンパキスタンに与え自国の影響力を強めてきたのである。

日本政府は、国家安全保障の脅威をもたらす国に、友好や人道の名の下に金額・技術ともに莫大な援助を続け、相手の軍事力の強化を助長し、自国の安全を危険に曝すという愚行を犯したのである。

そもそも日中戦争の発端は37年7月7日の盧溝橋事件である。日本軍と蒋介石を戦わせるためのスターリンの戦略に毛沢東が乗って開戦となったのである。日本の為政者が余りにも単細胞で思慮不足であったか、肝に銘じなければならない。


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