2011-11-01から1ヶ月間の記事一覧

英国の「陸軍派兵要請」を拒絶した山県

第一次世界大戦中の日本の外交、特に大戦に対する参戦問題は、のちの日本の孤立 化の節目になる日英同盟廃棄とも深い関係がある。14年(大正3)8月1日と2日、独露両国は互いに宣戦し、三国協商の露側の英仏も 相次いで参戦します。グリーン駐日英大使は8…

相次ぐ「海軍汚職事件」

大正3年1月23日 シーメンスの東京支店社員リヒテルが、日本海軍高官に贈賄した 証拠書類を盗んで恐喝し、ドイツで懲役二年の判決を受けたことが報じられました。 海軍大佐沢崎寛猛・海軍機関少将藤井光五郎が軍法会議にかけられます。 沢崎の判決は懲役一…

身分不相応な「大国主義」を選択

明治40年9月21日 日露戦争勝利の叙勲が行われ、伊藤博文・山県有朋が公爵、旅順 要塞攻略で稚拙な攻撃で六万の死傷者を出した乃木希典は、二階級特進して伯爵とな ります。資源の全くない国力の貧弱な日本は、英米国から関税収入やタバコ専売益金を担保に …

韓国を強引に「植民地」とした明治政府-②

明治40年6月のハーグ密使事件に激怒した初代統監伊藤博文は、7月19日大韓帝国 皇帝・高宗を強引に退位させ、純宗(閔妃の子)を即位させます。純宗の異母弟・英 親王(11歳)が皇太子に冊封され、同年12月日本留学名目で渡海させられます。 この英親王の人質生…

韓国を強引に「植民地」とした明治政府-①

日露開戦から13日目の明治37年2月23日「日韓議定書」が調印されます。それは韓 国の領土を自由に軍事使用できるということであり、韓国の外交権を制限するとい う意味で保護国化の第一歩でもありました。日本政府は議定書を拡大解釈して13,000の大兵団を韓…

「十万の英霊と二十億の国帑」

国家予算は10倍、銑鉄生産は150倍のロシアとの戦争には、108万9000人を動員して 戦死84,400人、戦傷140,000人 軍事費は明治38年の国家予算の約6倍の19億8400万 円であった。明治38年3月1日〜10日の奉天(現在の瀋陽)会戦でロシア軍は撤退するが、日本軍 は…

国家興隆期の戦争は、偉大な文明を生んだのです。

戦争というものは何であろうか。犠牲者は戦場の兵士だけではない。古来、民の苦 しみは戦争より甚だしきはない。しかし人の心を感動させる多くの芸術が戦争から 生まれたことも否定できない。紀元前480年ギリシャ艦隊がペルシャ艦隊を破ったサラミスの海戦の…

「ポーツマス条約」から「ハリマン提案」へ

旅順降伏後の明治38年1月22日ロシア第一次革命のキッカケとなる「血の日曜日事 件」が勃発します。これは生活苦に喘ぐ14万の民衆が司祭ガポンの指導のもと、戦 争反対と議会開設を請願しようとデモ行進中、冬宮広場で近衛兵が発砲し3000人の 死傷者を出した…

「太平洋戦争」の真の敗因となった「日露戦争」の勝利

明治政府は、ロシアに負けない努力そして、最も肝腎な終戦に向けて全力を傾注し ました。しかし、夜郎自大となった36年後の昭和政府は、勝利への努力・終戦のす べも全くないまま、太平洋戦争に突入してしまいます。昭和16年の海軍軍令部総長 永野修身は『戦…

「二〇三高地」の真相

第三軍司令官中将乃木希典は、旅順要塞の総攻撃を明治37年8月19日と決めます。 乃木の司令部は数日で奪れると思い、大本営はその旨、新聞発表するのだが、旅順 は数日でおちません。それどころかその後、百五十余日を費やし六万人(戦死二万) の血を流させる…

日露戦争開戦前夜

明治33年6月末 義和団は満州にも勢力を伸ばしていたので、ロシアは極東に大軍を 送り、10月には満州全域を占領してしまいます。明治35年1月30日 ロンドンで日英同盟が締結されます。当時イギリスは、ボーア戦争 で国力を消耗し極東に力を注ぐことができず…

「盧溝橋事件」の発端となった「北京議定書」

明治29年ロシアのニコライ二世戴冠式の列席を機に李鴻章は、300万ルーブルの賄賂 で日本に備えた、露清攻守同盟の密約を締結します。明治31年 ドイツは独人宣教師殺害事件を奇貨とし膠州湾を占領、99年租借に成功。 ロシアは李鴻章・張蔭桓に賄賂を贈り旅順…