「ポーツマス条約」から「ハリマン提案」へ

旅順降伏後の明治38年1月22日ロシア第一次革命のキッカケとなる「血の日曜日
件」が勃発します。これは生活苦に喘ぐ14万の民衆が司祭ガポンの指導のもと、戦
争反対と議会開設を請願しようとデモ行進中、冬宮広場で近衛兵が発砲し3000人の
死傷者を出した事件をいいます。

この事件が民衆の怒りに火をつけ各地で農民暴動が発生し、黒海艦隊の戦艦ポチョ
ムキン号の水兵も反乱を起こします。国内矛盾を対外侵略戦争によって隠蔽する、
ニコライ二世の目論見は完全に破綻してしまったのです。ニコライの戦争継続の強
い意思にもかかわらず、前蔵相ウイッテらが和平を推進できたのは、こうした国内
事情があったからです。戦争継続困難な日本にとって、この上ない幸運でした。

ポーツマス条約反対の日比谷焼打ち事件の真っ只中、アメリカの鉄道王ハリマンが
来日し、南満州鉄道を日本とのシンジケートで運用することを提案します。
伊藤博文井上馨桂太郎首相もこの案に賛成し、明治38年10月12日署名予定でし
たが、満州は日本の勢力範囲と一歩も譲らない外相小村寿太郎は、これを破談にし
てしまいます。

イギリスだけでなくアメリカも味方とすべき時に、小村という男は全く、先見の明 がなかったのですね。

岡崎久彦は、「日本としては、ハリマン提案を受諾しておくことが正解であり、小
村の術策は、国の大きな運命を誤ったというべきであろう。」と言ってます。

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