2011-01-01から1年間の記事一覧

「宮中某重大事件」で晩節を汚した山県

世界情勢の変化につれて、政治は政党協賛から憲政の確立へ、経済的には政商から近 代産業へ、文化的には良き臣民から個人主義の主張へと、およそ山県有朋の想像でき ない方向へ、大日本帝国は急速に変りつつありました。そこから枢密院議長である山県は、枢…

原敬内閣は「参謀本部廃止」を目指したが---

シベリア出兵を推進したのは上原参謀総長、田中義一参謀次長の参謀本部であった。 その田中が原内閣の陸相に就任するやいなや漸次撤兵政策を打ち出し、天皇の裁可を 得て参謀本部には抜打ち的に公示します。出兵兵力の進退は、統帥権に属し政府の権限外であ…

ロシア革命に対する武力干渉「シベリア出兵」

12年(大正元)12月二個師団増設を拒否された陸相上原勇作は、辞表を天皇に直接提出 します。この政策立案の責任者、田中義一軍務局長・宇垣一成軍事課長共に陸軍省を 去り、このトリオは当分のあいだ冷や飯を食うことになりました。大正3年6月中将となった…

ロシア革命の影響

17年(大正6)のロシア三月革命は、ブルジョワジー(工場経営者)を中心とした臨時政 府を成立させたが、その性格上、なおも戦時特需を求めて戦争を継続します。「パンと平和」を求める労働者・兵士・農民らは、ソヴィエト(権力に圧迫を加える 自治的権力機関)…

必然の結果 「ロシア革命」

91年(明治24) の露仏同盟の締結をきっかけに、ロシアはフランスから延々20年にわ たって借金し、遂に05年シベリア鉄道を開通させます。これがロシアの産業革命の象 徴となります。また、侵略戦争を推進する軍備拡張には、膨大な外貨が必要となり、国民が飢餓…

ノーモア 悔いの八千度 原子核

昨日、私の好きな銘酒を送ってくれる、親友の河村和男邸を久しぶりに訪問しまし た。川柳の先生だけに、パッと簡潔に表現する癖があって、彼の話は実に面白い。その時、彼の作品集「軌跡」という小冊子を頂戴したのだが、そのなかに、 『 ノーモア 悔いの八…

敗戦国「ドイツ」の償いは---

1918年11月(大正7) ドイツ臨時政府代表が休戦条約に調印した直後、仏軍は、両国 1000年にわたる係争地、アルザス・ロレーヌを占領して分捕ってしまいます。 同地は1870年(明治3) ビスマルクが仕掛けた普仏戦争で獲得した、50億フランの賠 償金と豊富な石炭…

「ヴィルヘルム二世」 の大戦への軌跡

ドイツでは1888年(明治21)弱冠27歳の青年皇帝ヴィルヘルム二世が即位します。 90年「社会主義者鎮圧法」廃止の皇帝は、内治優先から存続を主張するビスマルクを 辞任に追い込んで、対外侵略を推進します。 それはバルカンを通ってアジア・アフリカへという発…

天下の非難を浴びた愚行「対華二十一カ条要求」

第一次大戦で欧州列強は極東を顧みる暇がなくなった機会を捉え、陸軍は対支政策 として次の要求を大隈重信内閣に提出します。第一は遼東半島の租借期限の延長や独の山東省権益の継承などであるが、最後の二 項は「七、軍事の改善、武器の製造は日本の指導を…

英国の「陸軍派兵要請」を拒絶した山県

第一次世界大戦中の日本の外交、特に大戦に対する参戦問題は、のちの日本の孤立 化の節目になる日英同盟廃棄とも深い関係がある。14年(大正3)8月1日と2日、独露両国は互いに宣戦し、三国協商の露側の英仏も 相次いで参戦します。グリーン駐日英大使は8…

相次ぐ「海軍汚職事件」

大正3年1月23日 シーメンスの東京支店社員リヒテルが、日本海軍高官に贈賄した 証拠書類を盗んで恐喝し、ドイツで懲役二年の判決を受けたことが報じられました。 海軍大佐沢崎寛猛・海軍機関少将藤井光五郎が軍法会議にかけられます。 沢崎の判決は懲役一…

身分不相応な「大国主義」を選択

明治40年9月21日 日露戦争勝利の叙勲が行われ、伊藤博文・山県有朋が公爵、旅順 要塞攻略で稚拙な攻撃で六万の死傷者を出した乃木希典は、二階級特進して伯爵とな ります。資源の全くない国力の貧弱な日本は、英米国から関税収入やタバコ専売益金を担保に …

韓国を強引に「植民地」とした明治政府-②

明治40年6月のハーグ密使事件に激怒した初代統監伊藤博文は、7月19日大韓帝国 皇帝・高宗を強引に退位させ、純宗(閔妃の子)を即位させます。純宗の異母弟・英 親王(11歳)が皇太子に冊封され、同年12月日本留学名目で渡海させられます。 この英親王の人質生…

韓国を強引に「植民地」とした明治政府-①

日露開戦から13日目の明治37年2月23日「日韓議定書」が調印されます。それは韓 国の領土を自由に軍事使用できるということであり、韓国の外交権を制限するとい う意味で保護国化の第一歩でもありました。日本政府は議定書を拡大解釈して13,000の大兵団を韓…

「十万の英霊と二十億の国帑」

国家予算は10倍、銑鉄生産は150倍のロシアとの戦争には、108万9000人を動員して 戦死84,400人、戦傷140,000人 軍事費は明治38年の国家予算の約6倍の19億8400万 円であった。明治38年3月1日〜10日の奉天(現在の瀋陽)会戦でロシア軍は撤退するが、日本軍 は…

国家興隆期の戦争は、偉大な文明を生んだのです。

戦争というものは何であろうか。犠牲者は戦場の兵士だけではない。古来、民の苦 しみは戦争より甚だしきはない。しかし人の心を感動させる多くの芸術が戦争から 生まれたことも否定できない。紀元前480年ギリシャ艦隊がペルシャ艦隊を破ったサラミスの海戦の…

「ポーツマス条約」から「ハリマン提案」へ

旅順降伏後の明治38年1月22日ロシア第一次革命のキッカケとなる「血の日曜日事 件」が勃発します。これは生活苦に喘ぐ14万の民衆が司祭ガポンの指導のもと、戦 争反対と議会開設を請願しようとデモ行進中、冬宮広場で近衛兵が発砲し3000人の 死傷者を出した…

「太平洋戦争」の真の敗因となった「日露戦争」の勝利

明治政府は、ロシアに負けない努力そして、最も肝腎な終戦に向けて全力を傾注し ました。しかし、夜郎自大となった36年後の昭和政府は、勝利への努力・終戦のす べも全くないまま、太平洋戦争に突入してしまいます。昭和16年の海軍軍令部総長 永野修身は『戦…

「二〇三高地」の真相

第三軍司令官中将乃木希典は、旅順要塞の総攻撃を明治37年8月19日と決めます。 乃木の司令部は数日で奪れると思い、大本営はその旨、新聞発表するのだが、旅順 は数日でおちません。それどころかその後、百五十余日を費やし六万人(戦死二万) の血を流させる…

日露戦争開戦前夜

明治33年6月末 義和団は満州にも勢力を伸ばしていたので、ロシアは極東に大軍を 送り、10月には満州全域を占領してしまいます。明治35年1月30日 ロンドンで日英同盟が締結されます。当時イギリスは、ボーア戦争 で国力を消耗し極東に力を注ぐことができず…

「盧溝橋事件」の発端となった「北京議定書」

明治29年ロシアのニコライ二世戴冠式の列席を機に李鴻章は、300万ルーブルの賄賂 で日本に備えた、露清攻守同盟の密約を締結します。明治31年 ドイツは独人宣教師殺害事件を奇貨とし膠州湾を占領、99年租借に成功。 ロシアは李鴻章・張蔭桓に賄賂を贈り旅順…

日本を滅ぼした 「軍部大臣現役武官制」

明治31年6月 初の政党内閣、大隈重信を首相兼外務大臣、板垣退助を内務大臣とす る「隈板内閣」が誕生します。しかし尾崎行雄(咢堂)文相の拝金主義を批判した 「もし日本が共和国であれば----」という発言が災いし辞任に追い込まれ、さらに 大隈・板垣間の…

日本公使、朝鮮国国母『閔妃』を殺害!

今回は、角田房子著「閔妃暗殺」を引用します。 三国干渉は、朝鮮国の独立を主張した日本に多大な悪影響をおよぼす結果となります。一度日本に許可された「京仁鉄道敷設権」は取消され、アメリカに再譲渡されます。 これは日清戦争の戦費捻出に追われた日本…

日本陸軍の蛮行 「旅順虐殺事件」

明治27年11月下旬の旅順口要塞占領後、 「日本の部隊は旅順に入り、冷酷にも殆ど全市民を虐殺した。無防備で武器をもたな い住民が家々で虐殺された。無制限の殺人行為が三日間続けられた。」「大量の捕虜を得たところで、手数がかかるばかりである。第二軍…

日清戦争

前出の大江志乃夫著「日本の参謀本部」から引用します。「伊藤博文首相の政略は、軍部の主張する北京を攻略すれば清朝政権が崩壊する危険 があり、日本は講和の相手を失って泥沼の戦争に引きずりこまれる恐れがあったので 軍の絶対戦争論を抑え制限戦争論を…

戦争へ直走る、日本・清国

清国北洋大臣李鴻章は、明治12年「日本に譲歩しても日本はロシアの侵入を防ぐ力 はないのだから、むしろロシアに譲歩して日本を抑えさせた方が得策」と上奏。明治15年7月朝鮮国の引退中の「大院君」の扇動による『壬午軍乱』が勃発します。 日本公使花房義…

続 「参謀本部」

今回は、茨城大学名誉教授、大江志乃夫著「日本の参謀本部」から引用します。「参謀本部の設置の中心人物が『情報政治家』の山県であったことは、悪い伝統を持 ち込む結果となった。参謀本部が軍事情報のみならず、本来は政略に属する謀略や情 報政治にまで…

昭和陸軍暴走の引き金となった「参謀本部」の独立

明治11年12月 山県有朋は、陸軍省参謀局を廃止し新たに参謀本部を設置します。 これは自由民権運動の軍隊への影響を絶つため、軍令を政治から分離して天皇に直 属することで、天皇に絶対服従する軍隊を完成させることにありました。しかし陸軍卿を西郷従道に…

「維新の三傑」次々に他界!

「西郷隆盛に対する刺客問題といい、私学校生徒の陸軍火薬庫襲撃問題といい、西南 戦争の導火線に火をつけたのは明治政府であるというのは、大久保利通も川路利良も 認めざるを得ないであろう。」と「翔ぶが如く」第七巻にあります。大久保らの謀略で勃発し…

薩長閥の「国家の私物化」延々と

① 山県有朋の「山城屋事件」---兵部省出入の政商「山城屋和助」は兵部大輔山県有 朋を説得して兵部省の資金延べ80万円(現在の数千億円)を洋銀や生糸に投資させた が、普仏戦争で生糸の最大の輸入国フランスが負け大暴落、失敗に終る。明治5年山県 は和助を…