「ヴィルヘルム二世」 の大戦への軌跡

ドイツでは1888年(明治21)弱冠27歳の青年皇帝ヴィルヘルム二世が即位します。
90年「社会主義者鎮圧法」廃止の皇帝は、内治優先から存続を主張するビスマルク
辞任に追い込んで、対外侵略を推進します。
それはバルカンを通ってアジア・アフリカへという発想でした。

バルカンでのロシアとの対立は避けられないと判断した皇帝は、独露間の再保障条約
の更新を拒否、それならと91年 ロシアはフランスと同盟を結びます。(露仏同盟)
ここでフランスの孤立化に躍起となったビスマルクの努力が水泡に帰すわけです。

98年 ドイツは海軍法(艦隊法)を制定、英独間に建艦競争が激化します。更に99年ド
イツはトルコから「バクダード鉄道敷設権」を獲得します。これが独の3B政策

98年 アフリカの南北縦断政策をとる英の軍隊と、東西横断政策をとる仏の軍隊がス
ーダンのファショダで衝突・対立するのだが、仏政府は譲歩して戦争を回避します。
このファショダ事件は英仏接近の端緒となり、04年(明治37)英仏協商が成立します。

ドイツに備える英国は、バルカンをめぐる独露間の対立激化から、約100年間対立し
てきたロシアと結ぶことにしました。07年英露協商が成立し、ここに英仏露による
三国協商が自動的に成立し、ドイツ包囲網が完成します。

ここで米国がどう出るか? ヴィルヘルム二世は熟慮すべきであった。
モンロー主義により参戦しないと安易に考えたのだろうか?
米国独立戦争(1775〜83) で米国には、フランスから受けた大きな大きな恩義がある
ことに思いが至らなかったようである。

14年(大正3)8月 ドイツは4000万人の死傷者を出す世界大戦に突入します。
17年4月米国は参戦し、戦況は協商側に有利に展開され 18年11月 ドイツの敗北が
明らかになるなかで、キール軍港で水兵暴動が発生しこれが全土に拡大します。
皇帝は9日に退位してオランダに亡命、共和制が成立します。

英国のヴィクトリア女王は、ヴィルヘルム二世の祖母(母方)であり、エドワード七世
は伯父なのである。その関係を旨く生かして外交努力により大戦回避ができなかった
のだろうか? 国民の幸福より自己の面子を優先させる為政者が絶えないのである。

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