天下の非難を浴びた愚行「対華二十一カ条要求」

第一次大戦で欧州列強は極東を顧みる暇がなくなった機会を捉え、陸軍は対支政策
として次の要求を大隈重信内閣に提出します。

第一は遼東半島の租借期限の延長や独の山東省権益の継承などであるが、最後の二
項は「七、軍事の改善、武器の製造は日本の指導を受けること。
   八、外国に利権の譲与、または借款をする時はまず日本と協議すること。」
を掲げ、実質は中国の保護国化であり、韓国を併合した過程と同じである。

外務当局は、最後の二項を第五号として纏め希望条項とし、同盟国英国に極秘裏に
通報します。しかし第五号は除外し通知しません。

15年(大正4)1月 日本は袁世凱政府にこの二十一カ条要求を突き付け、交渉は極秘
としたが、即英国側から漏れ、中国全土は激昂して反日運動が広がります。

結果としては、英国・米国からの強い反対もあり、第五号を除き、最後通牒を発して
合意させます。この5月9日を「国恥記念日」とし抗日運動が活発化するのです。

「第五号要求を本気で押し通す気もないのに、国内の強硬派の意向を取り次ぐだけの
目的で、提案のなかに入れた首相大隈重信の無定見な大風呂敷と
それを単なる希望条項という体裁をつくり、五号だけは英国に通知しなかった外相
加藤高明の外交の姑息さ、最後通牒のかたちをとった粗雑さ
すべてが日本のイメージに決定的な打撃を与えた。」

「すべて中途半端なのである。ものごとの理論的帰結を厳しく考える態度を欠き、作
文で妥協するという官僚的な安易な態度がすでに政府内を支配していたのである。
それが第二次大戦に至る、日本の多くの誤りの基になっている。」----岡崎久彦

大隈は早稲田大学の前身「東京専門学校」の創設者だが、政治家としては三流だった。
しかし彼の国民葬には30万の東京市民が沿道で死を惜しむ程人気がありました。
加藤は岩崎弥太郎の娘婿で三菱の番頭と言われながらも、大正13年首相に就任します。

レース結果共鳴チェック