英国の「陸軍派兵要請」を拒絶した山県

第一次世界大戦中の日本の外交、特に大戦に対する参戦問題は、のちの日本の孤立
化の節目になる日英同盟廃棄とも深い関係がある。

14年(大正3)8月1日と2日、独露両国は互いに宣戦し、三国協商の露側の英仏も
相次いで参戦します。

グリーン駐日英大使は8月7日 太平洋における独巡洋艦の捜索、撃沈を日本政府
に依頼。8日未明までかけて、加藤高明外相は参戦を主張し閣議決定を得るのだが
元老には事前協議せず、山県有朋らの不興を買ってしまいます。

8月15日日本はドイツに最後通牒を発し、23日に宣戦して青島を攻撃。10月までに                                                                                ドイツ領南洋諸島の赤道以北を占領、11月には青島作戦が終了します。

16年(大正5)末ごろから、ドイツは潜水艦による地中海の通商破壊作戦を強化、協
商国側の被害が増大します。再三にわたる英国からの日本艦隊派遣の要請で、旧式
巡洋艦明石を指揮艦として、駆逐艦十二隻を派遣します。

英・仏が敗北すれば対米負債の支払いが困難になる恐れから、17年2月の独の無制限
潜水艦作戦を理由に同年4月6日米国が参戦します。
米海軍は駆逐艦六十四隻、駆潜艇七十七隻という大勢力で米国の威勢を示しました。

17年(大正6) ロシア革命により露軍が戦線を離脱し、独軍がパリ近くに迫る危機的
状況のなかで、仏・英から日本陸軍の欧州派兵を強力に要求されます。

枢密院議長山県有朋は「戦争後は白人と黄色人種の対立において、白人諸国が連合し
てくるのは必至」と考え、陸軍出兵を拒絶するのです。現に地中海に駆逐艦を派遣し
ているのに、陸軍だけは駄目というのは理屈が通らない。

英国の対日失望感は強く、日英同盟を長期的に維持する一つのチャンスを、日本は第
一次大戦の間に見逃してしまったのである。

以上 岡崎久彦著 「幣原喜重郎とその時代」より

国力の弱い小国が、無理して大国の真似をしてもすぐメッキが剥がれるものですネ
山県の存在は「老害」としか言いようがなく、彼は彼の死亡まで枢密院議長の椅子に
座り続けるのである。

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