韓国を強引に「植民地」とした明治政府-②

明治40年6月のハーグ密使事件に激怒した初代統監伊藤博文は、7月19日大韓帝国
皇帝・高宗を強引に退位させ、純宗(閔妃の子)を即位させます。純宗の異母弟・英
親王(11歳)が皇太子に冊封され、同年12月日本留学名目で渡海させられます。
この英親王の人質生活は、実に56年の長きに及ぶのである。

同年7月24日 第二次以上の内容をもつ第三次日韓協約が、何等抵抗もなく調印され
ます。統監府は大韓政府の各部署へ日本人官吏を送り込み、内政権を掌握。
更に8月1日 統監府は謀略をもって、韓国軍を解散させようとするが、一部軍隊を
中心に抗日義兵闘争が全土に拡大します。

明治42年6月 統監を曾禰荒助に譲った伊藤は、4度目の枢密院議長となります。
満州経略に意欲を燃やす伊藤は、同年10月26日 韓国独立運動家「安重根」にハルピ
ン駅で射殺されます。安重根は救国の英雄として、今日その銅像がソウルに建てら
れています。

日本政府は明治43年5月30日 陸軍大臣寺内正毅を現職のまま統監と決定。寺内はま
ず大韓政府の警察権を剥奪し、日本の憲兵警察制度を急速に整備します。最後に韓国
の地方に分散している日本軍を、極秘に漢城郊外に集結させ、同年8月22日「韓国併                                                                               合条約」が調印されます。これにより、京城(漢城改め)に朝鮮総督府を設置、初代総
督に寺内正毅が就任します。

昭和7年 総督府は内鮮一体、皇国臣民化を旗印に、朝鮮民族に在朝の日本の神社参
拝を強要します。六代目総督・宇垣一成の時代で、日本政府の陸軍大臣は「皇道派
のボスで、私に言わせて戴ければ最悪最低の精神論者「荒木貞夫」であった。

岡崎久彦は「日本の取りえた最善の措置は、同化政策は厳しく自制し、英国のインド
統治のように不良日本人の流入を禁止し、韓国人の土地や権利を尊重することだった。
それでも怨恨と抑圧の悪循環を完全に中断しえたかどうかわからない。」と言ってます。

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