韓国を強引に「植民地」とした明治政府-①

日露開戦から13日目の明治37年2月23日「日韓議定書」が調印されます。それは韓
国の領土を自由に軍事使用できるということであり、韓国の外交権を制限するとい
う意味で保護国化の第一歩でもありました。

日本政府は議定書を拡大解釈して13,000の大兵団を韓国に送りこみます。同年4月
3日 この日本軍を「朝鮮駐箚軍」(司令官大将長谷川好道)と呼称が決まります。

ロシア陸海軍の相次ぐ敗退を背景に同年8月 日本政府推薦者を財政・外交顧問とす
る第一次日韓協約を締結させます。

明治38年7月29日 訪日中のタフト陸軍長官と桂太郎首相との間で覚書が交されます。
日本はアメリカのフィリピン領有を、アメリカは日本の韓国保護国化をお互いに支
持しました。

同年8月12日に更新された日英同盟と同年9月5日のポーツマス条約で、イギリス
もロシアも、韓国に対する日本の保護権を認めることとなりました。

日露戦後の大不況と米作の不作から、明治政府および財界は、ロシアの領土が獲れ
ないなら韓国に進出しようと安易に考えます。

同年11月17日 特命全権大使伊藤博文は、日本公使館の台地上に大砲を並べ、砲口を
王宮に向けて、第二次日韓協約を強要します。これは韓国の外交権を接収して保護                                                                                国化し、漢城に統監府を設置(翌年2月1日)するという内容でした。

明治39年6月 儒学者で政治家の崔益鉉が蜂起するも政府軍に捕われ、8月対馬に収
監され断食を続け、翌年1月この世を去ります。

崔益鉉の予言「日本が不信不義を行っていれば、日本・朝鮮・清国三国の信頼関係は
破れ、いつか日本は列強に滅ぼされるだろう。」残念ながら日本には、このように先
を見通せる為政者が現われないのである。

前出 片野次雄著「李朝滅亡」から引用しました。


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