「十万の英霊と二十億の国帑」

国家予算は10倍、銑鉄生産は150倍のロシアとの戦争には、108万9000人を動員して                                                                                戦死84,400人、戦傷140,000人 軍事費は明治38年の国家予算の約6倍の19億8400万
円であった。

明治38年3月1日〜10日の奉天(現在の瀋陽)会戦でロシア軍は撤退するが、日本軍
は砲弾も、銃弾も、国力も底をついていたのです。

明治38年9月5日 賠償金ゼロのポーツマス条約締結断固反対・戦争継続を叫んで3
万人の群衆が日比谷公園に集結します。

その時のスローガンを大正・昭和にかけて、満州をめぐって列強との鬩ぎあいの時
に「満州を手放すのは、十万の英霊と二十億の国帑、これを無駄にするのか」とい
うように使うようになりました。

昭和16年11月26日 東条英機内閣にアメリ国務長官から、中国・仏印からの撤兵等                                                                                を要求する「ハルノート」が最終的に提案されます。

陸軍の先人たちが獲得した権益を失い、それを自らの時代に解体させることを恐れた
東条内閣は強硬路線を歩み、太平洋戦争に突入してしまいます。

戦後になって、ハルノートを作成した元財務省特別補佐官H・D・ホワイトは戦時中
からソ連KGBのスパイであったことを、マッカーシー査問委員会が表明しました。
彼は謎の死を遂げたが、やがて当局はKGB暗号の解読に成功し、彼がスパイであったことが判明します。

以上 半藤一利著「あの戦争と日本人」 工藤美代子著「われ巣鴨に出頭せず」より

スターリンの「資本主義国家同志を戦わせ、弱ったところを叩く」という戦略が明ら
かになったわけです。冷徹な戦略に戦慄を覚えます。それに比べ歴代の日本軍首脳や 為政者は、国家国民よりも、自己保身に汲々し大局を見ないのである。

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