東条英機の自決失敗

45年(昭和20)8月15日玉音放送が終わった3時間後、鈴木貫太郎首相は総辞職を願い
出ます。終戦処理を乗りきるには臣下では無理と考えた木戸内大臣は、平沼枢相と協
議の上東久邇宮稔彦殿下を言上し天皇の同意を得、東久邇宮は17日組閣。近衛文麿
副総理格で国務相として入閣。23日梅津美治郎陸相案は拒否され下村定が陸相に就任。9月15日外相も重光葵から吉田茂に変わります。

8月25日内閣記者団との初会見で東久邇宮首相は、国体護持を強調するあまり一億総
懺悔を唱えます。犠牲者である国民に懺悔しろとは!そもそも対米英戦争を始めた背景にはマスコミに煽られた国民的熱狂があって天皇も最後までノーと言い切れなかった。そのマスコミの生殺与奪の権を陸軍が握っていたのです。つまり陸軍が国民の理性を奪い米英に勝つ見込みの無いままにドイツの勝利を頼って開戦したのではなかったか?

8月30日連合国最高司令官マッカーサー元帥が厚木に降り立ち横浜グランドホテルに入り、9月2日9時東京湾の戦艦ミズーリ甲板で降伏文書調印式が行われました。首席全権重光、天皇に説得されて渋々参加した梅津参謀総長、外務省の岡崎勝男・加瀬俊一が列席。ソ連ソ連国民にも知られていないデレフヤンコ将軍が列席しました。

この日モスクワのスターリンは勝利の演説をラジオを通して行い、「今度の対日戦争の勝利は日露戦争敗北の報復、雪辱である。日本は旅順港ロシア海軍に無通告攻撃をしかけた。それは真珠湾攻撃とそっくりな不法な攻撃であった」と強調しました。

9月11日連合国軍総司令部東条英機以下39名の戦犯容疑者の逮捕を命じ、同日東
条は用賀の自宅へ米軍憲兵が逮捕に訪れると拳銃自決を図った。弾は心臓を外れ米軍
の輸血で一命を取り留めました。12日元帥杉山元は「東条のような醜態を晒せない」と司令官室で拳銃自決。拳銃に不慣れな杉山は4発全て急所を外し服毒自決したという。

陸相阿南惟幾は軍人として敗戦に責任をとって自決したが、東条・杉山や元関東軍司令官本庄繁は自らA級戦犯として裁かれることに不安と不満を持ったための自決で私的な意味あいが強い。東条は自らの名で示達した戦陣訓の虜囚となって辱めを受けずという教えにも叛いた。これは昭和陸軍の指導者が本心では自己中心的理由で戦争指導を行ったことになる。

高見順は東条の自決を批判。なぜ今になって取乱して自殺したりするのだろう。そのくらいなら御詔勅の日に自決すべきだ。----醜態この上なし。しかも取乱して死に損なっている。恥の上塗り。


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