近衛文麿の死

45年9月13日マッカーサー元帥と初会見した国務相近衛は、9月27日の天皇マ元帥の初会見が成功裏に終わったのを見届け、10月4日再び元帥を訪問。元帥は「憲法改正に関する提案を天下に公表せらるるならば議会もついてくると思う」と近衛を持ち上げます。

政治犯の釈放・治安維持法廃止・内務省解体などGHQの人権指令の実行を躊躇って
いた東久邇宮首相は、総司令部の通達で山崎巌内相、警視総監、全国警察の部長らが
一斉に罷免される事態に直面して5日総辞職し幣原喜重郎が後継首相に任命されます。

木戸内大臣と石渡宮相は総司令部と近衛の良好な関係から、天皇の承諾を得て近衛を
内大臣府御用掛に任命。8日近衛はアチソン顧問と憲法改正の意見交換。新憲法改正の討議は箱根宮ノ下の奈良屋旅館で開始されたが、ここにきて幣原首相は「憲法改正は重要な国務であるから調査、立案は政府が責任を持ってやるべき」と言い出します。

10月26日ニューヨーク・タイムズが「憲法改正処理に近衛公は不適任」という社説を掲載します。11月1日総司令部は「憲法改正のことは東久邇宮内閣の副首相としての近衛に依頼したことで、内閣総辞職によって解消したもの」との声明を出します。

近衛がアチソンに面会して詳細な私案の提示を受け、それを元に審議に入った時は既
東久邇宮内閣が総辞職した後のことで、総司令部の指令は言いがかりでしかない。

11月9日戦略爆撃調査団の出頭命令で近衛は駆逐艦アンコンへ連行され、3時間余の
尋問を受けます。近衛は同月22日憲法改正要綱の調査報告書を携え、御文庫に参内し
て奏上。紛々たる世論の中で近衛は辛抱強く委託された仕事の責任を果しました。

12月2日夕刻、梨本宮、広田弘毅ら59名に対する新たな逮捕令が出され、6日19時のラジオのニュースが近衛、木戸ら6名の逮捕令が出されたと告げます。16日未明近衛は貴族の生まれらしく誇りを捨てず服毒自決。毎日新聞のコラムは「近衛公の死は悲劇的である。少なくとも東条の喜劇的なのと対比される----華族が皇室に御迷惑を及ぼした罪、万死に値するこというまでもなかろう」と極めて冷淡でした。


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